ジャンヌ、雪の病室
田中修子

 あのひとは損な人だった。

 15歳くらいまでにやられたこと言われたことがえげつなすぎて、本当にいい思い出がない。やはり亡くなってスッキリした、と思うたびに、風穴が空いている自分を知る。

 ときたま必死に思い出す。あのひとが、あの女ではなく、お母さんであった日を。

 私の拒食が発症した次の冬の日、あのひとが肝臓を壊して入院していた。
 それでお見舞いに行った。

 私はお気に入りの、ガイコツみたいに痩せ細った体にピッタリ合う真っ黒いコートを着ていた。そう、あのひとが買ってくれたのだ。素敵な細身の黒いコート。
 
 そもそも地元の中学校に通いたかったのだが、あの女は、「あたしのいうこと聞かないんだったら地元の中学なんか出たらさっさと働いてもらう。労働者で搾取されて一生おしまいだよ。社会でやっていけないあんたが生きていけるわけないね」そう私をなじる。
 受験に受かったときは褒められた。きっと父か誰か、そばにいたのだろう。ひとりでいるとなじるし怒鳴るが、少しでもひとめのあるところでは気持ちの悪いほど褒める人だった。「修子ちゃんはほんとうにすごい子だわ~。ここ、見学のときにあなたが入りたいと言っていたわぁ。さすがパパとママの子ね」それで私はますますあの女が嫌いになった。 
 入学式でも、入ってからも、私はその女子校の建物に見覚えがない。校風も経血くさくてあまりにも合わなかった。あるときあまりにも不思議で尋ねた。「私、ほんとにここ入りたいって言った?」「あんたは見学もしてないねぇ!」勝ち誇ったような薄汚い笑い声。

 私はある日決意する。この学校で、誰よりもか細い、生理もとまってしまうような少女になってやろう、と。私は、あの女に似ているとよく言われた。あの頃の私は、女になってはならなかった。女になればあんな女になるのだ。
 お昼にカップラーメンと菓子パンを買うためにくれる500円をため、イトーヨーカドーのワゴンセールに足しげく通った。朝ご飯は、実家で毎朝出される玄米が腹に合わないので気持ち悪く、毎朝実家の立派な植え込みに吐いていかずにはいられなかった。お昼代は服代に消え、夜はほとんど食べなかった。三か月で50キロ代から40キロまで落ちた。私の筋肉はほとんど溶けて、鎖骨とあばらの浮き出る、青白い低体温の少女になった。
 
 そうして、少女が着るにふさわしいコートを見つけた。大学生向けのショップだった。黒い、細い、ダッフルコート。どうしても手の届かない値段だった。あんなに憎かったのに、あの女にねだったのはなぜだったろう。
 まだリサイクルショップのないころ、服はイトーヨーカドーのワゴンセールで買うのが当たり前のあのひとにとって、大学生向けのブランドの2万円のあのコートはすごい出費だったろう、それなのに、ものすごくイライラしながらも、買ってくれた。

 私は嬉しくてそれからその真っ黒いコートを、破けるまで10年くらいは着てた。

 お見舞いの日、真っ白い雪の坂をすべらないように上るのが大変だった。手はかじかんで縮まりそうだった。
 真っ黒いコートにボタっと雪が散って、ドロッと透明に溶けていって、どんどん体がしみてった。

 そうだ、あれは青く光る稲の日におばあちゃんを送ったのと同じ病院だった。
 個室じゃなかったと思う。大部屋で他に人はいなかった。やっぱり病室はおばあちゃんが亡くなったときとおんなし、まっしろだった。

 母は、すごくこころぼそそうな、はにかんだような顔で、
「お見舞いありがとう」
と言ってくれた。

 あ、お母さんだ。このひと、私の。

 それからしばらくして家に帰ってきたらあのひとはまたおそろしい、イヤーな感じのする存在になった。

 あのひとが家で体調を崩したときがあった。私の名を呼ばれて飛んでいく。おばあちゃんが亡くなるまで介護をしていたし、ともかく必要とされたかった。そう、私を見てほしかったのだ。

 引き戸の向こうで、えっ、えっ、という音がして、「ビニール袋持ってきて」というので吐くんだと分かった。ビニール袋を持って、引き戸の向こうからニュッと突き出た手に渡す。吐き終わるだろう頃を見計らって、引き戸をノックした。嘔吐物の入ったビニール袋や部屋にこもっているだろう匂いを処理してあげようと思った。
 布団に横になってまた険しい顔をしてあのひとは邪魔そうに私を見た。「なに」部屋はなんの匂いもなかった。けど、あのビニール袋もなかったから、あのひとはたしかに吐いたのを処理したはずだ。

 差し伸べた手を切り刻まれたみたいな気分。

 おばあちゃんを送ったのと同じ病院に入院したい雪の日、あの顔。あのひとが、あの女、でもなく、こころぼそそうではにかんだ、お母さんの顔をした、ほんの数回のうちのひとつ。

 あのひとが亡くなる数日前に、お弟子さんがなぜかどうしても撮る、と言って撮った写真があった。険しいか不安そうな顔で睨んでいてほしいのに、私ですらほんの数回しか見たことがない、いや、私ですら知らない、こころぼそさが抜けてほんとうに花がほころんでいるように柔らかいお母さんの顔があった。
 そのポートレートが遺影になった。私は遺影でしかあんな、優しい、けがれのない、お母さんの顔を知らない。
 
 その写真を見ると、ぶん殴りたくなる。

 あのひとは晩年、活動をしていなかった。
 仕事を引退した父は逆にのめり込んでいった気がする。

 されたことを全部思い出して、首をきって、私の水ぼうそうをえぐった頃の母を、過去視のできる人にみてもらったことがある。その人は私の過去を見て、「あなたがいちばん意地悪をされていたとき、お母さんは、自分がしたくないことをしていたようね」って言っていた。時期的に、活動しかないじゃないか。
 活動から遠のいてからのあのひとを、私を知らない。その時にはもう、あのひとに会うだけで自分を傷つける症状が出てしまっていて、私は精神科へ入院したりアルバイトをし過ぎてからだを壊して寝たきりになったり、そんな生活の繰り返しだった。

 ジャンヌ・ダルクはジャンヌ・ダルクをできる人じゃなかった。きっとそうだ。
 晩年はフラワーエッセンスとかアロマオイルとか、害のない民間療法に凝って、ひろめてた。
 あのひとはただの平民で、ただの娘で、ときたま可愛らしい、少し不思議な仕事をする人でいるべきだった、と思う。

 ジャンヌ、いまこんなふうに娘に文章で火あぶりにされている、かわいそうな、ジャンヌ。

 私はあなたを愛したかった。

 私がいつかお骨になって火あぶりに、真っ白に燃え上がるとき、あなたのこと、少しは分かる? そうして砕けたお骨は雪になって、あの病院の日に、しずかにつめたく降り積もる。


散文(批評随筆小説等) ジャンヌ、雪の病室 Copyright 田中修子 2017-10-22 01:38:18縦
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