ジャンヌ・ダルクの築いたお城 蛸
田中修子

 おととい、あるいてほどなくある実家の父に「婚姻届けのサインをもらいにいっていい?」と電話をした。「いま、選挙期間中だから忙しい」私は黙った。それで、父は慌てて「時間がある今日中にサインしにゆく」「ありがとう」私は笑顔でいった。それで電話を切って泣いた。私は会ったらなにをしてなにをいうかわからなかったから、婚約者に出てサインをもらってもらった。やはり私は活動の次の存在だった。母が死んだことでだいぶ順位はあがったが、そんなことはもうどうでもいい。今日私はあの家から解放される。

 母は数年前の11月28日に死んでくれた。何年に何歳で亡くなったのかは忘れた。そのうちに思い出すこともあるだろう。
 終戦の年にうまれたのはおぼえているから、2017年のいま生きていれば72才だ。固執する面と関心がない面がある。ふだん旦那の前では「あの女」と呼んでいる。
 あの女には民青で活動したときに通り名があった。「同志社大学のジャンヌ・ダルク」という。民青と敵対している勢力に属していた平成うまれの旦那が京都大学で活動していたとき、「同志社大学にはジャンヌ・ダルクがいて、民青のやつらをオルグしようとしてジャンヌ・ダルクに逆オルグされた仲間が何人もいた。だから、同志社大学には近づくな」と同志にいわれていたという。
 あの女から留年したという話をきいたことがないから、1967年には卒業していたはずの女の伝説が、2013年頃まで残っていたということになる。

 私も家の方針で高校まで民青をやっていた。班長までやっていた。違和感を覚えて辞めようとしたとき、ひきとめがすごかったのと、「なにか悩みはありませんか」という人が来て、「これじゃ宗教と変わんないな」と思っていまは嫌悪感しかない。
 いま私は完全なノンポリである。旦那もいろいろ事情があって、その民青の敵対組織はすこし前にやめていた。あそびと転職活動を兼ねて都内に飲みに来て、店員さんに昔活動していたころを自慢げに話していた旦那に声をかけられ、「私ノンポリなんで」ととりあえず言っておいて、旦那の「ここでノンポリという単語を聞くとは」で、盛り上がった。

 私には瘢痕状になった腕の傷あとがある。瘢痕状、というのは、傷に傷を重ねて、もとのなめらかな皮膚がまったく見えなくなっている状態のことをいう。まるでしわしわのちりめんのようだ。
 傷あとは脚にもある、首にもある。そっちは、恐竜にひっかかれたあとみたいになっている。

 「傷あと」であることを私は誇りにしている。

 精神疾患があって、幼児期からの虐待を受けた人・レイプを受けた人・あるいはナチス収容下の捕虜、そうしてベトナム帰還兵にみられる複雑性PTSDという症名である。
 
 「これ、これ。見て」精神疾患込みで私を好きになってくれる人でないといけないから、会ったときすぐに私は腕の傷あとを見せた。それから首あとを見せた。そのうちに脚のも見せた。
 それでも生きている私を、旦那は、「人間こんなになっても生きてられんだな」と、よくわからない感動を覚えたという。旦那のいいなずけは東日本大震災のとき、津波に飲まれた。漁村の網元の娘だったそうだ。一族ごといまも遺体は見つかっていない。「あのいいなずけなら、泳ぎも達者だからどっかで生きているかもしれない。たくましい子だった」というのが、「こんなからだになっても生きている子」という私にスパっと切り替えられたようだ。

 それから中距離恋愛をしていたころに、「あんたんとこの活動はどうだった」とか、そういう話しをたびたびした。
 「うちの母、同志社大学のジャンヌ・ダルクっていうの。民青でオルグした父と一緒に反戦活動とかめちゃくちゃしていた人よ。日本共産党から市議会議員の立候補もしたこともある。いらだちが凄かったのか、私、ほんとうに罵られまくっていたの。"あ、この女、私をストレス解消道具にしてやがる"って小学生で分かっちゃったときがあったんだよね。小学生が分かるんだから本当よね。その前もそれからもいろいろあってさ、それで私この首と腕と脚で、症名は複雑性PTSDよ。笑えるよね。でも通り名は聖女の名前なんだよね」「お前あのジャンヌ・ダルクの娘か!?」
 そうして伝説のことを話してくれた。

 私が本当に旦那に惚れたのは、あの女を知っているというその瞬間だったと思う。因業なものだ。

 おさないとき、スっ転んでよく怪我をした。
 抵抗力をあげるためと、だいたい、放置だった。
 そうして私は、自分のかさぶたをはいではよく食べていた。傷が治りきるまえのじゅくじゅくを引っぺがして、またあたらしい赤いのが滲む。また真ん中のほうからこぎたないうす桃茶に盛り上がって、かたまってくる。
 自分をたべるのが好きだった。自分で自分の傷を愛していた。


散文(批評随筆小説等) ジャンヌ・ダルクの築いたお城 蛸 Copyright 田中修子 2017-10-12 08:03:48縦
notebook Home 戻る