美しいひと/日時計
ただのみきや
目鼻立ちの麗しさではなく
口もとからふと匂い立つ色香でもない
清水の底から沸き上る泉のように円やかな微笑み
それは微笑んで見せようとする思いの仕草が
表情を作り出すよりもどこか深いところの水脈から
静かに運ばれて 中に満ち
やわらかく綻びながら
決して開くことのない蕾のようにすべて
秘めたまま
誰のためでもなく
だからこそ惜しみもなく
人々に見捨てられた土地の
瓦礫の陰にそっと揺れる草花のように
たまたま目をとめた者が呼吸すら遠慮しがちに
気が付けば もう少し あと少し
目と心を側に寄り添わせたくなって
手折らずに ただ心の
荒れ果てた心の中の一番良い土地へ
その姿だけをそっと植え 大切に
暗黙に誓う秘密のように守り続けたくなる
美しいひとよ
あなたの中には 何一つ
醜さも汚れもないのですか
ありますとも
たくさん たくさん 溢れていますよ
わたしの心はそんな汚物でいっぱいの暗い牢獄
思い出せる限りずっと ここに暮らしているのです
これからも きっといつまでも
死ぬまで変わりはしないでしょう
いつの頃からか 穿たれた穴から光が射し込んで
わたしの前には私の影がまるで双子の姉妹のように
わたしを見上げていました
わたしは影に話しかけました 独り言のつもりで
影はオウム返しに答えてくれました
ところがある日のこと
影を見つめていると 影が 勝手に動き出したのです
影がわたしに従うはずなのに
わたしは影につられて動いてしまう
いつの間にか影が語ることをわたしが語り
影が振舞う通りに振舞っていたのです
抑えようとしても無駄でした
いつも人を憎んだり妬んだり
そんなことはしたくないと
必死にこらえて戦いました
ひと時は 抑えられるのですが
抑えた分だけよけいにドロドロした悪意の妄想や企みが
口や毛穴から噴き出して
そのみじめさと言ったら
影は嫌がるわたしに口移しで罵りや嘲りを含めます
私の半生は影との会話 影とのダンス
くるくる回され翻弄されて
足もつかないほど持ち上げられる
そうかと思えば息が止まるほど抱き寄せられて
泣き顔を覆う両手の指の隙間から
澄んだ涙ではなく
暗い牢獄の汚水が滲み出して
すすり泣きの向こうからは嘲笑う声が
狂ったバイオリンのように
生活の綻びはひどくなり繕うこともできません
やがて すべてはバラバラに
繫がりもなく 意味を失って
立ち行かない紙切れのよう足元にまき散らされても
頭をかすめる思いとは裏腹に
拾い上げようとも繋ぎ止めようともしないで
牢獄の冷たい椅子に置き忘れられた人形のようでした
その日もわたしはいつものように
影を見つめていたのですが
うなじになにやら温かさを感じて
ふと後ろを振り向いたのです
射し込む光の方へ
今まで目にしたことはあっても眩しくて
見つめたことはありませんでした
牢獄の暗さと影に慣れたわたしの瞳は
まるで焼けて潰れたかのようで
目を瞑ってもしばらくは明々と燃えていました
するとわたしは初めて 頬に微かに
吹き込んで来る風を感じたのです
そのまま光に顔を向けて目を瞑っていると
こんどは草の匂いか花の匂いか
牢獄にはないとても懐かしい匂いがしてきます
驚きで心がふるえました
きっと今までもそうだったのでしょう
ただ自分の影ばかりを見つめて気が付かなかったのです
わたしは想像してみました
外の世界を
孤独の中でただ
怒りや憎しみや妬みの腐った葡萄を
絞り出しては熟成させている
この心の牢獄から解き放たれて
広い大地
風が 遠く
どこまでも続く草原を
奏でるように揺らしいる
異なる色彩が天と地で
光に溶けて混ざり合う
あたらしい心の地平を
心と心は
貸しも借りも
負い目もなく
傷つけ合うこともなく
求めて
与えて
互いの中に欠けを見ず
自ら満ち満ちて
たとえこの世界ではおとぎ話でも
この心に穿たれた穴の向こう
射し込む光の先にある
新天地を
あの日以来わたしはその光に夢中になって
牢獄の外に耳を傾けているのです
今では小鳥のさえずりや
ああ懐かしい 子どもたちの笑い遊ぶ声が
聞こえて来るようで
わたしの心は今も変わらず牢獄にいます
怒りや憎しみ妬み
あらゆる汚物が溢れ悪臭が満ちている
きっと死ぬまで変わらない
あの影だって今もわたしにぴったり寄り添って
わたしが再び振り向くこと待っている
でも それがいったい何でしょう
顔を光に向けて
この牢獄の外へ
夢中になって思いを馳せているわたしにとって
それらはもう在って無いようなもの
忘れ去られたものなのです
その美しいひとは
決して美しいものだけではないこの世の片隅で
まるでそここそ満ち満ちた命の源泉が
豊かに湧き出している場所だとでも言うように
尽きない微笑み湛えながら
静かに暮らしている
彼女の想い描くあの新天地がその顔に映り
鏡のようにその輝きを反射しているのだろうか
よく見るとその顔には
とても細かい 無数の
まるでガラスの欠片で何度も擦られたような
大小の傷跡が残っていた
過去の出来事は夢にはならない
だけどそれは時間にすっかり拭われた遺跡のように
もう語らなくていい
ただ光に晒されていればいい
すっかり白くなった前髪の幾筋かが
午後の光にふわりと揺れていた
未来を楽観視しているのか
たんなる諦念か
死や来世への憧憬だろうか
逃避と呼べるだろうか
彼女は自分と過去を真っすぐに見つめ
この世界で人々と関わり合って生きている
あまりにも多くの要素を含んでいるようで
実際には何事に置き換えてみても空虚になってしまい
ひと時の感情や
指数のようなものでしか表現できない
「幸福」という言葉を
空っぽの熨斗袋の飾りを弄ぶように
冷たい冬の歩道を
歩いていた
なにも見ないで
ただ歩いて
機械へと変貌して
私の牢獄
大通りにある広い公園の真中へ
もう長い間そこに立って身動きもせず
日時計の柱として
人々の満ち引きと交差しながら触れ合うこともなく
己の影を見つめ続けて来た
《もっと若い美人が幾らでもいるだろう》
午後四時を回った影が遠くから鳴り響き
瞑った目の中は嵐の港だった
――光を反射しない真っ黒い柱
私は美しいひとを想い
彼女の言葉を想い
ただ光の方へ
私も光の方へ
向き直ろうとしたその時
大きな手が私をペンのように掴み上げた
黒いインクがいくつも滴り落ち
撃たれたように夜が覆う
《美しいひと/日時計:2017年3月4日》