琵琶の音色
水菜
それは、不思議な音色だ
【祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ】
不思議な音色のなかに連れて行かれる
声は、波のようで、達観しているようにもみえる
変化しないものなどどこにもなく、
一瞬の儚さのなかに
永遠が在る
それは、在るというには、足りないひどく足りない
目には見えない微かな塵のようなものに過ぎないのかも知れないが
変化しないものなどどこにもなく、
それは、人の精神も同じことだ
そして、人の行いも同じことだ
変わらないと意固地になって言い張ることは愚かだ
意固地になりながら、なにを怯えている?
人は、生き物は、この地球上のあらゆるものは、進化し続けているか(生)(創造)、退化し続ける(死)(破壊)か、どちらしか有り得ない
人が想像してみた、別次元の空間や、止まった時間が未来には創造可能だとして、
そこに、塵は存在するのか
生は在るのか
止まる時間を動ける人がいるのだとしたら、その人は、何を生きているのだ
写真の中の美を見たいのか
あのような、水の弾かれる様子の一瞬までもを止めた時間に生きたいのか
そうではないだろう
止まるということは、既に生ではない
死でもない
人の身体が、死を迎えた時、人の身体は一分一秒も止まってはいない
たちまちに、動きを止めていた身体の中の微生物が、周りのバクテリアが、周りの生き物たちが、別ベクトルの動きのなか、今度は、土へと自然へと人の身体を分解し、有機物から、塵に変えていく
それは不思議な音色だ
そう、なにを怯えているのだと、そう諭されているかのようだ
私たちは、変化し続ける時の中で、生へのベクトルでも死へのベクトルへも、進むしかなく
それらは、自然界のサイクルの中での、自然界の殆どのものと同じ、有機物としてのちいさな決まりごとに過ぎない
どちらにせよ、時は止まらない
一瞬は、永遠と同じという事実がそこに在るのみ
私たちの意識上では、一瞬も永遠も、塵と同じ
認識できぬ領域に存在する認識に過ぎない
私たちは、塵に同じ
そして、精神は、そこに在り、そこに無いものでも在るから
この世は無情であるけれども
それで自然なのだ
在るという事実は、純粋無垢に、在ることでしか有り得ない