琵琶の音色/水菜
 
以下の方がこの文書を「良い」と認めました。
- 吉岡ペペロ 
- ひだかたけし 
押忍(`-´ )ゞ笑イイッス
---2017/01/15 00:15追記---
〉この作品を書いているときに、強く思っていたのは、自らが、把握出来ない領域のものに対しての畏敬だったりしました。一瞬の時間も永遠の時間も、私の身体は、私の目は、認識出来ないわけです。ナノサイズの極小の生き物たちの世界を私は知らないし、超音波のような音が揺らめく世界も知らないわけです。私は蜂のような目も素早く飛べる羽根も持っていませんし、ましてや、時の狭間の世界の事情など、想像でも手が余ります。

えと、端的にちと指摘を

水菜さんは、感覚的観察力と
想像力をごっちゃにしてないかな?

コメントから引用した箇所、微小生物や超音波等は科学的な精密機器で観察可能なものーただし、感覚的に

想像力とは本来、感覚的観察力を超えたもの、でしょ?
幻想とは全く違うレベルで

ちと混乱しているようなので。

水菜さんは理路整然と物事を思考する力を持っている、と感じたので、今一度熟考して頂ければ幸いです(^.^)ゝ
---2017/01/15 00:28追記---
 
作者より:
☆水鳥 魚夫 様

>あなたの詩は 作者の信念を感じます

>枯れ木に枝葉をつけて
>これが詩だ と言っている人が多いなか

>実のある 創作姿勢が良いです


この作品に目を留めて下さり、ポイント、お言葉まで、誠に有難う御座います。
信念……そう感じてくださる方がいらっしゃることに、瞬きました、びっくりしたのかもしれません、認めていただけているようでとても嬉しいです、ただ、ひどく私などには勿体ないお言葉に思えて、嬉しいのですが、とても複雑な気持ちです。

理研が、マウスを休眠状態にさせる【基礎代謝が30%程度となる】(低代謝状態にし、冬眠状態にさせる 100%の確率)ことが出来るようになったと発表したらしいですが、映画の世界だった【コールドスリープ】が、人にも応用可能かもしれない未来が見えてきて、様々な分野で、人の生命の時間を伸ばす研究がなされているように思います、私は、この作品や、もう一つの作品で、止まること、停滞することは生きることではないと書きましたが、そうではない時代もすぐそこに迫ってきているようです、臓器移植などの分野などでも、提供された臓器を運ぶ際に細胞を休眠状態に保てば、細胞は、止まりながら生き続けるわけですから。重体の患者さんを運ぶ際にも休眠状態に保てば、助かる確率は上がることでしょう。少し前の詩にも書きましたが、老化した細胞を薬で取り除く研究、細胞自体を薬を飲むだけで新たに再生される研究など、命の研究の躍進が止まらない現状ですが、一方で、人が地球の資源を食いつぶす現状も止まらない。日本の大林組も2050年までに宇宙エレベーターを作るという計画があるようですし、ペンシルバニア州立大学の研究者らが発見したダイヤモンドナノフィラメント構造を使えば、地表から宇宙までの距離を伸ばし、低コストで宇宙へ行ける宇宙エレベーターも実現可能らしいですね、そうかと思えば、鉄に変わる新しい素材セルロースナノファイバーの実用化が、検討され始めていますし、地球の資源問題も案外、次世代素材で解決に向かうかもしれず、やはり未来はわからない。http://www.asyura2.com/15/hasan99/msg/798.html
いろんな意味で、神への挑戦のように思えますが、どちらにせよ、私自身は大したことは出来ないのだから、やはり、この詩に書いたように塵のようなものなわけです、
こちらに来て下さり、本当に有難う御座います。嬉しかったです。失礼致します。


☆牧野クズハ 様

牧野クズハ様の作品世界を泳がせていただいて、真っ先に感じたのは、胸をしめつけるかのようななにかでした。涙が出そうになり慌ててウィンドウを閉じました。牧野クズハ様が、この作品を目にされて、どのように感じられたのかなぁって想像して私は嬉しくなります。素敵な作品を読ませて下さり、有難う御座います。
この作品に目を留めて下さり、ポイントまで、誠に有難う御座います。この作品を書く際に、自らに言い聞かせていたのは、やはり、昔の方のとても広い視野と考え方でした。私には考えも及ばないなにか塵以下のものまでもを見つめるかのような繊細な視線を感じることがあります。落語を動画で観たり、このような祇園精舎の琵琶の音と声を動画で聴く度に感じるのですが、人は、想像出来る生き物だということ。些細な音の響きに、自らのちからの及ばないなにかを想像したり畏敬の念を覚えたり、遥か昔の時を思い、自らの現状と照らし合わせたり、微細な心の動きは、まるでジェットコースターのように想像の羽根を広げ、空間を越え、想像をさせる、それはひどく自由です。日本画を見られてみてください。大胆な構図、大胆な色使い、昔の方のイメージの力は、なんと美しくそして純粋で、とても自由なのかと感嘆します。
私は、この詩を書いて、人は、死か生のベクトルの中でしか進めないというようなことを書いたように思いますが、それはそうなのだけれども、それが自然界のちいさな決まりごとなのだけれども、その自然界の決まりごとに唯一ベクトルの影響を受けない自由なものが、人のこころにひろがる精神だと思います、
精神はどこへでもいける、そしてそのイメージの羽根が、想像も及ばない未来を創造する橋へと繋がるのだと思います。
帰着点を見失いましたが、私は大したことのできない塵に過ぎないけれども、そういった意味で、精神の世界でのみ、私はどこへでもいけるし、とても自由なのです、
そういったことを思います。まとまらない言葉をすみません。
今回、こちらに来て下さり、嬉しかったです。失礼致します。

☆吉岡ペペロ 様 

吉岡ペペロ様の作品世界を泳がせていただいて、感じるのは、なんて、あたたかな手当てをされるようなことばを綴られる方なのだろうってことです。選ばれることばひとつひとつが、まるで、手のひらをそっとかぶせているかのように繊細であたたかで優しく感じます。吉岡ペペロ様が、この作品を目にされてどのようなことを想像されたのかなぁと私は嬉しくなります。素敵な作品を読ませて下さり、有難う御座います。
この作品を書くときにイメージしたのは、わたしが触れる自然の声や、音、空気、ざわめきや、手触りだったから。
やっぱり、自然も呼吸をしているということ、
土も生きているということ、
空気も生きていること、
水も生きていること、
そういったことでした。
大気が生きていると書いたのは、大気もまた、地球から宇宙空間に少しずつ散っているからです。この世は、どんなものも循環し生きているということなのだと思います。それが自然のサイクルであり、バランスなのだとも。※地球の引力で引き止められきれないものは宇宙空間に散っています。
どんなに文明が進んだとしても、人の身体は、有機物です。機械仕掛けのロボットではないのだから、土や水、木、大気から離れた生活はストレスになる。それは当然のことなのだと思います。H.Gウェルズが書いた『宇宙戦争』でも、クラゲのような宇宙人たちは、生き物でとても弱かった、なにしろ、地球に当たり前にあるバクテリアに殺されてしまったのだから。人が文明に沿った身体に適応し遺伝的に作り変えることが早いのか、科学のちからでそれを可能にしてしまうのかそんな先のことはわかりませんが、結局は適応していくしかないのかなと思ったりもします。どんなことを考えようと私はこの詩に書いたように塵のような存在に過ぎず、あなたの頭はお花畑だわ。と言われても反論できないです。笑 すみません、帰着点を見失いました、今回、こちらに来て下さり、本当に有難う御座います。嬉しかったです。失礼致します。

---2017/01/14 22:42追記---

☆ひだかたけし 様

>押忍(`-´ )ゞ笑イイッス


わぁ、素敵なお言葉を有難う御座います。(*´∀`*)嬉しいです。この作品に目を留めて下さり、ポイントやお言葉まで誠に有難う御座います。

この作品を書いているときに、強く思っていたのは、自らが、把握出来ない領域のものに対しての畏敬だったりしました。一瞬の時間も永遠の時間も、私の身体は、私の目は、認識出来ないわけです。ナノサイズの極小の生き物たちの世界を私は知らないし、超音波のような音が揺らめく世界も知らないわけです。私は蜂のような目も素早く飛べる羽根も持っていませんし、ましてや、時の狭間の世界の事情など、想像でも手が余ります。
でも、私は、それらの世界を想像することだけは出来る。想像し、創造することで、こうなのかなとなりきることが出来る。それはすごいことだと思うのです。形のない想像のものたちが、なにかしらの形を伴って、私の目の前に表れるのですから。現れてしまえば、私はもうすでにその世界を知らないとは言い切れなくなるわけです。あるかもしれないわ
と思うしかなくなるわけです。初めはなにもないと思っていた空間に意味が生まれ、その意味が自らの意思で動き始めるなんて、素晴らしいと思いませんか……?想像の世界のそれは自由です。フランシス・ホジソン・バーネットが書いた『小公女』で、セーラは、服屋の店主から、ジュモー製の最高傑作と言われるフランス人形を手渡されますが、(ジュモー人形は、低く見積もっても100万円はするらしく、貴族しかもてなかったらしいですが)この人形、エミリーにも、セーラは、プリンセスであるように求め、私が居ない時はきっとこの子は楽しく動いたり喋ったりしているのだからと話したりしています。小公女は幾つかお話があるのかな、私が昔読んだ小公女では列車の中からお話が始まり、そのときには既にセーラのお父さんからエミリーを渡されていたので、ちょっと話がぶれて不思議に思いました。アニメの小公女も好きですし、色々ごちゃごちゃになっているのかなって今、初めて思いました。幼い頃見たものって、そうなりがちなのかな。無機物ですら、ひとの想像の手にかかれば命を持ってしまう。それはとても深い事実のように思うのです、すみません、また帰着点を見失いました、、
今回、こちらに来て下さり、本当に有難う御座います。嬉しかったです。失礼致します。

---2017/01/15 00:05追記---
☆ひだかたけし 様

---2017/01/15 00:15追記---
>〉この作品を書いているときに、強く思っていたのは、自らが、把握出来ない領域のものに対しての畏敬だったりしました。一瞬の時間も永遠の時間も、私の身体は、私の目は、認識出来ないわけです。ナノサイズの極小の生き物たちの世界を私は知らないし、超音波のような音が揺らめく世界も知らないわけです。私は蜂のような目も素早く飛べる羽根も持っていませんし、ましてや、時の狭間の世界の事情など、想像でも手が余ります。

>えと、端的にちと指摘を

>水菜さんは、感覚的観察力と

想像力をごっちゃにしてないかな?

>コメントから引用した箇所、微小生物や超音波等は科学的な精密機器で観察可能なものーただし、感覚的に

>想像力とは本来、感覚的観察力を超えたもの、でしょ?

幻想とは全く違うレベルで

>ちと混乱しているようなので。

>水菜さんは理路整然と物事を思考する力を持っている、と感じたので、今一度熟考して頂ければ幸いです(^.^)ゝ

---2017/01/15 00:28追記---

m(_ _)mご指摘有難いです。(*´∀`*)はい、!もう一度、しっかり考えてみます。想像力って何なのか、ご指摘通り、今、ごちゃごちゃなのです、(;_;)
すこし、時間をいただければと思います。(*´∀`*)時間がかかるかもしれませんが、整理してみます。有難う御座います、!(*´∀`*)おやすみなさいです。m(_ _)m

---2017/01/15 02:04追記---

Home
コメント更新ログ