自らの管理できる幅の中で
水菜
私は、私たちは、自らの受容を広げたり、狭めたり、出来るものだと思う。
けれど、最近、私が気付いたのは、必要なもののみで固めれば息がしやすいということ、そして、自らの管理できる幅で、範囲で、固めるからこそ、そこに責任感も生まれるということ。
たとえば、恋人のバースデーやクリスマスプレゼントを買うお金が無いけれど、なんとか渡したい(大事だから)自らの出来る範囲で、食費を切り詰めたり、節約したりして、プレゼントを買う、なんて、その典型だと思う。
私は、聖人君子ではないし、仕事ではなく、プライベートであるなら、時には、素直に怒りを表に出すことも必要だと思う。
もう、無理はしない。
私は、普通の人だ。
失敗もするし、怒りも感じる。赦せないこともあるし、それによって断絶が必要になるなら、それを行う。
それは、相手方の為にもなると私は、知っている。
真剣に怒ってくれる方、潔く断絶してくれる方の有り難さもまた、私は、知っている。
なんでも同じだ。
なにかを掬い取り、なにかを受容すれば、
別のなにかを失う。
けれど、リスクが無い選択は存在しないし、
なにかを決める時大切なのは、
中途半端が一番駄目だということ。
クリスマスイブでもあるし、これは、少し気の早いサンタさんからのプレゼントかもしれない。
私は、今、自分の管理できる幅を見極める練習をしている。
それは、その過程も含めて、私にとって大切なことだと確信しているからこそ、そう思う。