一〇月、食事のあとで
ホロウ・シカエルボク



夜の訪れとともに降り出した雨は秋の始まりにしては不自然なほどに冷たく、まだ夏を待ってでもいるような薄着の私はたちまちのうちに凍えてしまう、友達はそんな私を笑い、私はしかたなく笑い返す、自分の身を抱くようにして震えていると、まるで怖い夢を見た後のようだなと思う、でも、怖い夢なんてここ数年まるで見ていなかった、怖い夢を見るのは憧れてばかりいる人間のすることだ、少なくとも私はそう思っていた、もちろんそれが、私が怖い夢を見ないということの理由になるかどうかはべつの話だ、新しく出来たイタリアンレストランの帰り道だった、パスタが少し柔らか過ぎると感じたけれど、味については申し分なかった、待ちたくなかったので予約を取った、予約を取ったのは友達だった、そもそも彼女がそこで食べよう、と誘ってきたのだ、そんな食事をしながら水の値段のせいでテレビの仕事を無くしたコックさんが居たね、なんて話をした、その店でそんな話をしていたのは多分私たちだけだった、近くのホールでクラシックのコンサートがあったらしく、周りはタキシードやイブニングドレスを着た中年以上のカップルでいっぱいだった、どうしてみんなあんなに人生に満足したみたいな顔をしているんだろう、と、軽く彼らの様子を窺って私は思った、もちろんそれはコンサートの余韻のせいでもあるだろう、でもきっとそれだけではなかった、私も大人になったらジャズやクラシックを聴くようになって、あんな格好をしてコンサートに通うのだろうか、なんて考えていたこともあった、高校生くらいのころだ、でも今でも私は流行歌が大好きで、休みの日は一人でカラオケに出かけて二時間くらい好きな歌をうたってばかりいる、そんな自分をどう思うかなんていう話ではないけれど、たとえば今夜のようにイタリアンレストランでそんな人たちに囲まれたとき、私はどうしてそんな大人にならなかったのだろう、なんてぼんやりと考えるのだ、そしてどうして、私は流行歌が好きなのだろうと考える、身を焦がすような激しい恋や、夕暮れの繁華街でキスを交わすようなロマンティックな経験などひとつもなかったというのに?あったのはそれなりの―それが標準なのかどうかは判らないけれど―まあよくあるような話がいくつかあっただけだ、そうして私はそんなことに飽きてしまったのかもしれないなんて考える、もっと楽しいことはあるのかもしれない、でも、もういいのだ、私はそれをつまむ程度で、あとは自分の好きなものをあれこれと追っかけている方が楽しい、雨、やんでるね、と私の考え事を邪魔しないように黙って歩いていた友達が言う、え?と聞き返して私は傘をずらして空を見上げる、星は出ていないけれど薄いヴェールを被ったような夜空がそこには広がっている、私の目を濡らすものはなにもなかった、「ほら、もうあんただけ、傘さしてるの」友達が笑う、私は慌てて傘をたたむ、撫でるような風が吹き始める、どうする、電車に乗る?と友達が聞く、彼女は多分私の答えを判っている、「いいよ、歩いて帰ろう、そんなに遠くないんだから」彼女は笑う、私は生真面目な顔をして、頷く、柔らか過ぎるパスタのことなんかいつの間にか忘れていた。


自由詩 一〇月、食事のあとで Copyright ホロウ・シカエルボク 2016-10-25 22:23:54
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