峻厳
ヒヤシンス


 暑さ厳しい夏を向こうに控えて
 君と聴くモーツァルトが今日は愉しい。
 無限の広がりをその音に託し、
 感情の極限を曝け出した楽曲達が
 この耳を刺激する。
 曇天が水滴を垂らすような悲しみも
 晴天の神々しい輝きも。

 君が時折見せる不安げな表情を私は見逃さない。
 君は言う、生きていくのが心底嫌になったよ。
 そういう時の君は決まって私の応接室のソファーで長い足を組み、
 力無く開いた手の平で二、三度空を切る。
 私は黙って俯いた君の長い睫毛をただじっと見守っている。
 何故、と聞くのが愚問なほど空気は澱んでいる。
 そして私は徐にモーツァルトのコンチェルトを流すのだ。

 今年も夏がやって来る。
 私は突然君がいなくなってしまうのではないかと訝しがる。
 君の持ち込んだスケッチブックにはいくつかのデッサンがあるが、
 ほとんど全ては、女の背中に男が爪先で傷を付けているものばかりだ。
 そしてそこだけ赤いインクが垂れている。
 不思議なことに男も女も君自身だ。
 感性だけが天に召されている違和感のない感覚。
 本当に君には夏が来ないような錯覚に陥る。
 君は言う、全て僕さ。そして駄作だ。

 部屋中に漂うモーツァルトが行き着いた清冽さが悲しい。
 神に愛された彼の天才が彼を短命にしたのだろうか。
 そもそも彼は実在したのだろうか。
 彼の音楽の背景に幼い天使が見えるのは私だけであろうか。
 
 程なく君は私の部屋を去って行った。
 スケッチブックだけをテーブルに置いたまま。
 そこで私は思わぬ発見をしたのだ。
 スケッチブックの最後のページ。
 正面を向いた君の肖像画。
 背景には三人の天使達が君の魂を天空へと運んでゆく光景が
 そこだけ光り輝く金色に彩色されているのを。

 もうじき夏が来る。
 少年時代の夏は楽しい記憶で満ちている。
 君は楽しい少年時代を過ごさなかったのか。
 歳をとる度に美化されてゆく過去の記憶は甘味である。
 君は記憶の中に安らぎを求めようとはしなかった。
 今日より未来へ希望をしか抱かなかったのだ。・・・絶望。
 私は君の中に一つの美を見た気がした。
 
 君と語らうことはもうないのだろう。
 部屋中にモーツァルトがゆったりと流れている。


自由詩 峻厳 Copyright ヒヤシンス 2016-07-13 03:23:43
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