刺繍糸のこと
はるな

いまでもわたしはあの9月の川べりに座って、可愛いあのこと好きなものを言い合ってる。いいかんじに色あせたTシャツのプリント、外国のバンドのロゴが書いてある、ぼうぼうに伸びた雑草、東北のさばさばした風。でも、もう触れない。ここがそこじゃないってことを何よりの証拠にして、違う音が鳴る。
できるだけ正しいことを、考えていても、寝返りをうつだけでぼろぼろになってしまう。おまけにすべてはいくつか年をとって、壊れたりなくなったり、うまれたりした。爪は伸びるし(切って)、髪も伸びるし(切って)、わたしの手足はもうそれほど伸びないけれど、むすめは竹の子みたいにぐんぐん伸びていく。50円切手じゃ届かなくなった手紙、ナッツ・ケーキ、駅前でお酒を出すお店。5月。
なつかしい街を歩いた。スニーカー、結んだ髪、すこし前には想像もしなかったかたちの帽子。なつかしい道、なつかしい音、ぽつぽつと新しくなった店、でも敷き詰められたタイルの汚れまでなつかしい。まちの空気が、思い出の面影をうつして息苦しくなる。いつだったかわたしたちは同じように寝返りをうって、はだしだった。でもちがう正しさを求めていたので、同じようには踏みはずせなかった。(もうどこにもいないわたしたち)

むすめはベビーカーで静かに寝ている、わたしは知っている道を知らないところまで歩いて、刺繍糸を買った。いつでも一人ぼっちになれる嘘つきの才能、今年一番の暑さですというアナウンス。この世界が、いつまでたっても知っている世界にならない。



散文(批評随筆小説等) 刺繍糸のこと Copyright はるな 2016-05-19 10:06:34
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