02. たとえばの仮定
塗絵 優作
自分なりに、いろんなサイトを見、そこに書かれているコメントを
読み解いていくと、前回の「子供を産む」発言に対する批判として、
だいたい3つのものに大別できるのでは無いかと感じました。
ひとつは、子供を産みたくても産めない人がいるのだから
そういうことを言うべきではない、という意見。
これについては、手が不自由な人が居るから箸の使い方を
教えないとか、足が遅い子が居るからかけっこをしないとか、
そういう話と同じ次元のように感じます。
一見取るに足らない意見のようですが、もし、この発言を、
「子供を産みたくても産めない」当人がしているとすると事情は変わります。
それはつまり、「私ができないことを、他の人がするのは許せない」という
感情に他なりません。
ふたつめには、子供を作るということを強制すべきでない、
という意見がありました。おおもとの校長先生の発言が強制力を
帯びているのかという点については疑問が残りますが、
それはさておき、この意見に近い発言を見ているとある傾向に
気付きます。それは、「世界は例外を認めないと思い込んでいる」と
いうことです。言い換えれば、理想の姿で無いものには価値が無い
と受け止めている、ということでも良いと思います。
そして、何故か、文脈から、発言者が、自分より理想に近い位置に居ると
感じているようにみえる他人に対し、極端に攻撃的になる様子を
しばしば目にしました。
みっつめは、そもそも子供を産み育てることができる環境にないのに
そんな発言をしても意味が無い、というものです。
まるで、大金持ちしか子供を産んではいけないと言わんばかりの発言も
実際にはありました。貧しい人が子供を産むのは、子供に対して
無責任というわけです。世の中には貧しい子供時代を過ごした
成功者などいくらでも居ると思うのですが。
このような発言を見ていると、ほぼ直接的に、次のような言葉が浮かびます。
言葉というより思考の成り立ちと言っても良いかもしれません。
つまり、劣等感、責任に転嫁、努力の否定、嫉妬、他者への攻撃、
というような思考の順序です。
悲しいことですが、人間の本性のひとつの性質として、このような考えは
ごくごく限られた人のものではなく、多数派意見を形成するに足るほどには
普遍的なものだと言えそうです。
これを、人の弱さ、と言ってしまえばそれまでですが、実際には、
「弱さ」という言葉では言い表せない、どろどろとした何かがありそうです。
もう少し、考えてみたいと思います。