会話の練習 『ゆらゆら揺れるものだから』
カンチェルスキス

 


 夕暮れどきの港。
 偏光グラスが西日に反射する。その中年男性は、釣り人である。通り過ぎたとき、私に声を掛けてきた。
「こんにちは」
「こんにちは」
 私も応じる。「釣れましたか?」
「ええ、今晩のおかずぐらいは。十数匹ですけど」
「ほぅ、上等じゃないですか」
「まぁ、上等です」と男性は微笑む。
「御の字ですね」
「ええ、御の字です」
「あのぅ、増えるわかめはご存知ですか?」と私。
「知らないです」と男性。
「元々はぎゅっとなってるんですけど、水に戻すとぶわぁ~っと広がるんですよ」
「女子の高校デビューの話ですか?中学で暗かった娘が、知り合いのいない私学で垢抜けするっていう。うちの娘がそうなもんで」
「いえ、わかめの話です」
「そうですか、わかめですか。知らないですね。本当だったら、夢みたいな話ですね」
「夢じゃないんです。わかめなんです」
「ほぅ、わかめがですか。減っていくものが多いご時勢、増えるなんて結構なことじゃないですか。例えば、森林、砂浜、きれいな川に、嫁からの小遣い、昔に比べれば、何でも減ってますよね。増えるのは、嫁の小言と自分の加齢臭ぐらいで。環境問題に興味あるんですか?」
「いえ、わかめが増えることについて話してるんです」
「わかめの、業者さん?」
「マクドナルドで、スマイル売ってます」
「マクドナルドでは、わかめの宣伝はしちゃいけないことになってるんだ?」
「そんな規則はないと思います。たぶん、罰則も」
「ベーコンレタスわかめバーガーとか、ありそうなのに」
「どの位置にわかめを挟むか、きっと揉めたんだと思います」
「わかめは海の物だから、パンに練りこんだらいいでしょう。遠くにあっても、近くにあっても、海は私らを包み込んでくれているんですから」
「あのぅ、ひょっとして、お師匠さんですか?落語家とかの。すごい、お話が上手なもんですから」
「いえいえ、私はそこいらの、ただの脱臼癖のあるしがないおじさんですよ」
「今は?」
「してません」
「そんなふうに見えないですね」
「よく言われます。なで肩だから」
「いいですね。肩が、肩じゃなくなる瞬間を味わえて」
「わかめだって、増えるんでしょ?」
「ぎゅっとなってるのが、ぶわぁ~っと広がるんです」
「水を得たわかめって、このことだ」
「油断するんでしょうね、安心して」
「海と勘違いするんですかね」
「やっぱり海の物ですから」
「増えた仲間とゆらゆら揺れて」
「本当は増えてないですけど、増えた気になるっていう」
「増えないんですか?」
「ええ、見た目が変わるだけで、量は増えてないんです」
「まるでイリュージョンですね。やる気出てきましたよ」
「だから、増えた気になるわかめってのが、正しいわけです」
「上等じゃないですか」
「まぁ、上等です」
「御の字ですね」
「ええ、御の字です」
「わかめナルドになったら、看板も変わるんでしょうね」
「ええ、MからWへ」
「すごいですねぇ、世界がひっくり返るみたいだ」
「何かが変わるってのは、きっとそういうことなんでしょうね」
「深夜、国道沿いのWがゆらゆら回る。それにつられ、集う小魚、熱帯魚、やがて大きな魚がやって来て、築地が賑わう。魚河岸問題もはらんでるんですね」
「今も回ってるのがあったかどうか。今度、店長に聞いてみます」
「きっとどこかで回ってますよ。この地球だって回ってるんですから」
「あの夕日がそうですよね」
「離れていくけど、ちゃんと戻ってきて、えらいですね。熱いみそ汁のお椀なんか、ツツーッと勝手に走ったりしますからね」
「僕だけだと思ってました。あなたもですか」
「悩んでたんですか?」
「霊のしわざかなって。そんな時期もありました」
「そんな時期もあります。今晩は、みそ汁でもこしらえて、お互い豪儀にツツーッと走らせましょう」
「増えるわかめ入れて、ですね」
「こんなきれいな夕日見れたら、それぐらい許されるでしょう」
「今、自分の中で、何か増えた気がしました」
「わかめ?いや、もっと違うもの?」
「何かわからないけど、こう、何か」
「言わなくてもいいですよ。しぜんにそうなっていくものですから。鳥だって、空がなけりゃ、飛べないただのおっとりですよ」
「冴えてますね。やっぱりお師匠さんでしたか」
「今晩のおかずも手に入れたしね。増えるわかめの話、帰ったら早速、嫁にも話してやりますよ」
「足りないものが足りてくると、笑顔が増えますからね」





散文(批評随筆小説等) 会話の練習 『ゆらゆら揺れるものだから』 Copyright カンチェルスキス 2016-03-30 22:16:01
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