たとえばこれが10月の
はるな


2月が終れば3月がくるということを、無論ずっと知ってはいたけれども、たいていこのくらいの時期になるときゅうに理解してしまう。毎年、性懲りもなくだ。2月と3月のあいだには、いくつもの恋が横たわっていて(いくつもの、そしてひとりの)、わたしはそこをいまは一人で歩かなくてはならない。梅の花が例年よりはやく咲いて散ること、今年はあたらしい街を歩いていること、いつだったかの桜の木がまだその場所にあること。沈丁花の蕾や、かさかさになってもまだ茎から折れずにいる紫陽花の枯れた花、みるたびに膨らんでいく蕗の薹。
暖かい日の空がだんだん薄まって冬をなくしていく。かちかちに冷えた風がやすりをかけたように少しずつ柔らかくなっていく。娘の前髪がおどろくほどはやく伸びるので、勢いあまって自分の髪まで切ってしまう。髪の毛をきることなんてなんでもないことだったのに、いまは。
理解することは、良いことだよ。でもすぐに忘れてしまう。だったらそれは、理解ではなくてたんに梅が咲くようなことではないのかしら。あるいは散るような。散っても、また咲くような。
たとえばこれが10月であればよかったかなと考える。
たとえばこれが10月の、さめてしまったコーヒー、何も塗っていない爪。お行儀よくならんだマニキュアのボトル、たとえばこれが10月で。でもわたしには想像できない、なんども行きつ戻りつした日々のうしろに枯葉が舞うところや、コートを出し始めるところなんて。
たとえば娘の寝息のない夜や、夫のスーツのないクロゼット、ドーナツなしの日曜日なんて想像できないみたいに。
2月が終れば3月がくるのだし、2月がおわるまで3月はこない。そして3月がくればすぐに夏になって、わたしたちはいくつかの問題に深刻になりすぎることもなくなる。日がすこしずつ長くなる、生活は少しずつ明るくなる、問題を後回しにするという選択を思いつく。
10月が来るまでには娘の髪をなんども切るだろうし、紫陽花の新しい花も咲く。
咲く、そして、枯れるのだとしても、わたしはそれをまた理解しようとする。


散文(批評随筆小説等) たとえばこれが10月の Copyright はるな 2016-02-19 00:19:27
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