チューしてあげる
島中 充

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優に百メートル超える長い土塀に囲まれた屋敷の前を通って、ぼくは毎朝、小学校へ通った。広い屋敷の庭には松の木や樫の木がうっそうと繁っている。白い土塀のかわらの上に木々が暗い森のように見えていた。昔大地主であったなごりに、「平井家さま」とこの屋敷だけが「家(ケ)さま」と付けられて呼ばれた。土地の呼び名もここら一帯は平井家と呼ばれている。この地域で昔から畏敬の念をもって迎えられる特別な屋敷である。だが、戦後の農地解放でほとんど総ての田畑を平井家は失ってしまった。ただ白い土塀の大きなやしきが残っているだけだった。ケイコはその没落地主の三人兄弟の末娘である。
平井ケイコとぼくは幼稚園からの知り合いである。五年生で初めて同じクラスになった。ケイコはへちまを思わせる間のびした顔。茶色がかった乾いた髪を背中までのばし、それはとうもろこしのひげを思わせるようにうなじの上で束ねられていた。ケイコはみずばなをよくたらしている。幼い時から始終鼻かぜをひいていて、みずばなをなめくじのように鼻孔から出したり引っ込めたりしていた。鼻じるが鼻先から落ちるなと思うとひゅるりと上手に鼻孔に戻した。そして所かまわず、鼻をかんでブーとならすのだった。五年生になるとやはり幾らか鼻汁は少なくなったようだ。ケイコは木登りが得意で、庭の松の木によく登っていた。松の木は8メートルを越える高さがあり、登りやすいように斜めに生えていた。土塀の瓦のはるか上で、おおきく枝分かれしていた。6メートルほどの高さの枝分れまで登り、ケイコはいつもそこにスカートの裾からパンツを少しのぞかせながら腰をかけていた。そして、塀越しに下の道を知った人が通ると声をかけた。「おーい、班長」これがぼくにかける声であった。ぼくはそれがひどくいやであった。通りで木に登っている女の子から、なれなれしく頭上から呼ばれる筋合いはないと思っていた。木に登るのは猿である。鼻たれ猿に馴れ馴れしくされる覚えはないのである。そのうえ、時おりケイコのお母さんが出て来て、ぼくの手にお菓子を握らせた。
「ケイコがいつもお世話になりまして」などと言われると、ぼくは一目散に逃げ出したい気がした。木の上のケイコから声をかけられても、ぼくはチャップリンの泥棒が不意に警察官に出くわす時のやり方で、口笛などを吹いて、いかにも知らないふりにやりすごすのが常だった。きのう、ケイコはその松の木から
「班長、ここまでおいで」と声をかけてきた。そして少しうつむいて何か考えていたかと思うと、不意にとんでもない事を言った。
「ここまで登って来たら、チューしてあげる。」こともあろうに班長であり学級委員であるぼくにむかって、ここまで来たらチューしてあげると言ったのだ。ぼくの顔はみるみる真っ赤になり、かたわらの地面の石を掴んだ。
「くっそ」とスカートの下に見える白いパンツに向かっておもいっきり投げつけた。いつもは犬や猫に向かって投げても当たったことのない石が見事におしりに当たった。
「いたっ、痛いやないか、先生に言い付けてやるから」とケイコは言った。その言葉で、しまったとぼくは思った。なんで当たってしまったのだろうと思いながら家に走って帰った。先生に言い付けてやる。この言葉をその頃ぼくは一番気にしていたのである。四年生までは自己中心的で、確かに我がままだった。ぼくはよく先生に言い付けられていた。委員長のくせにと叱られていた。それでも平気だった。気にならなかった。

ぼくを可愛がってくれたお祖母さんが亡くなったのは二か月前のことだ。菊に埋もれた青白いお祖母さんの死に顔を見た。おしろいが白く塗られ、口紅が赤く、口や鼻孔に白い綿が詰められ、気味悪く鼻の穴や唇の隙間から白くのぞいていた。もうニンゲンではなかった。ひとりでこのように花に囲まれて青白く死んでいくのだ。ニンゲンはひとりで生まれ、ひとりで死んでいくのだ。ひとりぼっちなのだとわかった。なぜだかさびしくってしかたなかった。ニンゲンはひとりで死ぬんだ。だから生きている間だけはひとりぼっちになりたくないと思った。ぼくを愛してくれる親兄弟がいる。仲良くしてくれる友達や先生がいるはずなのだ。でも自分はひとりぼっちのような気がしてならなかった。自分はひとりぼっちではないのだと思いたかった。先生や友達たちがぼくをどのように好いているか。嫌っているのか。気になって仕方なくなった。わがままな事をしていてはだめだ。みんながのぞむようなよい振る舞いをしなければならない。みんなに好かれたい。好かれたいと思うようになってきた。ひとりぼっちにならないためにみんなに好かれる振る舞いをしなくちゃいけない。言い付けられるような、嫌われるようなことをしてはいけない。たとえ本当の自分でない嘘の演技でもそうしないといけない。みんなはいつもぼくを見ているのだ。ぼくはいつも見られているのだ。言い付けられるようなことをしては絶対にだめなのだと思うようになってきた。
ケイコはこの事でさいわい先生に言い付けることはなかった。自分がチューしてやると言った事が先生やみんなに知れるのがきっと嫌だったに違いないとぼくは思った。
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どうした訳か、ケイコにはあだ名がなかった。あだ名になるべき特徴は山ほどあるのだが、ひとつひとつがあまりに際立っていた。例えば、みず鼻を垂らしているのでその形から「なめくじ」と付けると、次に控えているへちまとか、鼻ばかり咬んでいる「鼻ブー」が死んでしまった。色々なあだ名が次々に付けられても、すぐに消えてしまった。呼ぶときには、あだ名ではなくケイコ、ケイコとみんなは名前で呼んだ。そして、自分でも、
「ケイコはね、ケイコはね」としゃべった。五年生にもなって、自分の事を自分の名で言うのは、馬鹿の証拠だと、ぼくは心の中でひそかに思っていた。
 ただ、ケイコは僕の苦手な音楽が得意だった。キーキー声で『はるかな尾瀬とおい空』と歌い先生にほめられた。歌い終わるとツーと鼻水を垂らしたりして、みんなから喝さいを浴びた。音楽の時間はジャーン ジャーン ジャーンと先生がオルガンを弾いて始まるのだが、ぼくは何のことだかわからない。これはドミソ、ジャーン、これはドファラ、ジャーン、これはシレソ、ジャーン。これは何ですかジャーンと弾くのだが、ぼくはなんのことだか分からない。みんな同じ音だ。ぼくは何をやっているのか分からない。和音だと言う。ケイコはそれはドミソ、それはドファラとみんな言い当てるのだ。そのことをお母さんに尋ねると
「困ったわねー、それって音痴っていうのよ」と答えた。

担任のオンナ先生は競争させるのがすきだった。四十二名の生徒を六人ずつ七つの班に分けて、掃除や毎朝行われるドリルの小テストを、班ごとに競わせた。テストはその班全員の合計点を棒線グラフに書いて、模造紙を教室の壁にはった。ぼくの班はその点取り合戦でビリだった。それはケイコがいるせいだ。ケイコの通信簿は見なくても、誰もが知っている。一本槍を持ったあひるがいっちに、いっちに、と行進しているのだ。ケイコはにたっと笑って、手も足も出ない、手も足もないだるまだと言って、零点のテストを、ぼくに提出してきた。班長であり、学級委員でもあるぼくは、その競争に勝ちたくて仕方がなかった。丁度その頃、ぼくはリーダーと言う英語を先生から初めて教えてもらい、あなたはリーダーですからと言われ、その言葉がひどく気に入っていた。そうだぼくはリーダーなのだと思った。立派なリーダーに成りたかった。ケイコの勉強の面倒をみて、成績を上げるのがリーダーの務めである。そのための班ごとの競争であり、競争に勝って、良いリーダーとして、先生にほめてもらいたかった。みんなに認められたかった。ぼくもまた競争するのが大好きな子供でもあった。しかし、鶴亀算や、植木算ならまだしも、ケイコは九九を時々間違えた。おまけに一向、正確におぼえようとしなかった。
「ケイコは鼻がいつも詰まって、考えることが出来ない。頭が悪い」と、平気で言うのだ。
 朝のテストの時間。この金持ちのうすらとんかちを、どうしてぼくがめんどうを見なければいけないのか、と思いながら、ドリルのテストを後ろの席にまわしていた。谷底になっている教室に貼られている棒線グラフを横目にみて、丁度うまい具合に、ケイコはとなりに座っていた。そうだ、わざと腕をひいて答案を書き、その答案をケイコのへちま顔からよく見えるように右端にずらしておけばいい。そうすればケイコもぼくと同じように満点を取れるはずだと、ぼくは思った。しかしケイコは一向に盗み見しようとはしなかった。馬鹿のくせに盗み見しようとしないのは本当のおろかまで付く馬鹿ではないか、とぼくは思った。ぼくはそのように考えるニンゲンであった。
 馬鹿正直のケイコだからこそ、大層ケイコは誰からも好かれていた。確かに勉強はできなかったが、白痴ではない、普通に話していて、むしろ人を面白がらせるほどの大変な賢さと知恵を持っていた。愚かにみえたが、素直だった。馬鹿にされた話しぶりをされても、馬鹿にされていると気づいても、平気でうんうんとうなずいていた。自分の失敗談や、お父さんとお母さんの夫婦喧嘩のありさままで、
「ほかでしゃべったらあかんと言われてんねんけど」と話した。
ケイコのことをみんなは、ちょっとそのように扱っていたが、たいへん好いていた。クラスで一番の人気ものであった。クラスで一番好かれていた。
 しかし、ぼくはそんなケイコに複雑な思いがあった。ケイコの好かれる理由をぼくはあほのお人好しだから、みんなも安心して付き合えるのだと思っていた。馬鹿にされても、にやっと笑っているケイコが一番我慢ならなかった。なぜなら、ぼくはケイコのように、みんなに好かれなかったからだ。誰よりも一番好かれたいと思っていたのに。好かれるように頑張って演技していたのに。なんだか演技すればするほどみんなから嫌われているような気がしていた。投票で、いつも委員長に選ばれてはいたが、それは白々しさをたぶんに含んでいた。勉強と体育が出来るので仕方がないと思われて、選ばれていたのだ。ぼくはクラスのみんなにぼくがリーダーであること、尊敬と、好いてくれることを期待した。期待すればするほど、みんなから嫌われているようだった。その上、内心ではケイコのような人気が欲しくて、欲しくて、仕方がなかった。好かれたかった。何をやらせてもだめなくせに、鼻をずるっと鳴らせて、にたっと笑えば、誰からも許されたケイコ。そしてなによりもケイコはリーダーであり、野球で、サードで、四番を打つぼくをちっとも尊敬しなかった。ぼくはケイコにひどく腹を立てていた。机から消しゴムが転がっても、隣の席のケイコが机を揺らしたせいだと怒った。こともあろうに、そのケイコがぼくにあだ名を付けたのである。
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 二学期の初め、理科の時間、岩石について授業があった。砂岩、玄武岩、大理石などのこぶし大の標本が教室内に回された。その岩石のできかたと特徴についての先生の話があった。その中のひとつにれき岩と言うのがあった。その石がぼくの班に回ってきたとき、右手にそれを高くかざして
「うわー、班長みたい」と、ケイコが静かだった教室に時の声をあげた。れき岩とは、砂の中に、ごつごつ尖った岩のかけらが混じって固まった、いかにもぶさいくなやつだ。クラスのみんなは爆笑した。先生も涙を浮かべて、笑いながら、人差し指で、涙をぬぐった。これを見てぼくはひどく腹が立った。色黒にやせて、ほお骨が張り、目立ったそばかすの有ったぼくは確かに、自分でもれき岩に似ていると思った。そして、自分がそう思ったことに一層腹を立てた。そのうえ、大爆笑の中に、ぼくはみんなの悪意のようなものを嗅いでしまった。委員長であり、リーダーであるぼくだからこそ、みんなは人一倍、先生までもがこのことで、涙を浮かばせて喜んでいるのだと思った。ぼくはケイコににえ湯を飲まされたように腹を立てていた。
 以来、ぼくのあだ名はれき岩になった。かっと頭に血がのぼった時、ぼくは赤れき岩と言われた。血の気が引いて青くなった時、ぼくは青れき岩と陰口をきかれた。そしてそのあだ名をぼくが快く思ってないのは、クラスの誰もが知っていた。ぼくのいない所で、ぼくの悪口を言う時にだけ、青れき岩が、赤れき岩が、と隠れて使われた。だがケイコだけは違っていた。あの松の木の上で、下を通るぼくに、スカートから白いパンツをのぞかせて、
「おい、れき岩」と、呼びかけるようになった。怒り狂っている赤れき岩に、以前のように口笛を吹いてごまかす余裕などなくなった。ぼくはケイコに仕返しをしてやる機会をねらっていた。木の上の猿に、いつか誰も見ていない所で、これがれき岩だと言うげんこつをくらわしてやろうと、ねらっていた。
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 三学期の北風の吹く日、ぼくの班は一年生の掃除当番であった。幼くて、自分たちで掃除出来ない一年生の教室は、五年生がすることになっている。丁度その日、インフルエンザが猛威を振るい、同じ班の三人が休んだ。残り三人で掃除をやらなくてはいけなかった。水は冷たい、だが掃除はちゃんとやらなくてはならない。
「今日、一年の掃除当番は三班。」と、言い残して、さっさとストーブを燃やした暖かい職員室に引き上げて仕舞っている先生に、
「掃除できました」と、班長は報告し、検査をうけなければならなかった。ぼくは、今まで、まじめに掃除などやらなかった。机を運ぶことや、バケツの水汲みなどはした。あるいは、掃除をしている素振りはしたが、一生懸命、丁寧にやろうとは考えもしなかった。あんなものは、オンナにさせておけばよい。何もできない、テストでいつも班の足を引っ張っているケイコがやればよいと思っていた。そのうえ、ぼくはクラスで先生の次にえらいニンゲンなのだと思っていた。これをしろ、あれをしろとその場で監督するだけで許されるのではないだろうかと思うずるい心もあった。リーダーとはそういう意味にも理解していた。今までから、ケイコは飛び跳ねるように、ぼくから言われる通り掃除していたのである。
 三名が休んでいるため、その日ぼくは、ケイコにいつもよりたくさんの命令を出した。
「机を引け。床をはけ。黒板を拭け」その間ぼくはいつものように
「黒板消しの掃除だ」と言って、窓の外に両手を突き出して、二つの大きな黒板消しをシンバルのようにバンバンたたいていた。
「あほらし、もういやになった」
突然ケイコはぼくに向かって大きな声で文句を言った。床を拭いていた棒ぞうきんをひっくり返した。柄の先で床をコツコツと叩いた。仁王のように反り返っていた。
「掃除しやなあかんやないか」ぼくは優しく、いかにも出来の良くない生徒をさとすように言った。
「なに言うてんの。自分はなにもせえへんで、黒板消しばっかり叩いて、いつも命令するだけや」
ケイコは右肩を幾分そびやかした。ぼくは自分がずるく立ち回っていることはよく知っていた。やましい気持ちがあったところへ、にくらしいケイコの指摘が突き刺さった。かっと頭に血がのぼった。
「あほ、はよ、床、ふけ」
「なんや、赤れき岩!」
前のめりに背伸びしながらあごをしゃくってケイコは顔をつきだした。ちょうどよい具合にどついてくれと言う付き出し方になった。ぼくの平手が顔面にばちっとみまったった。チョークの手形が頬に白く着いた。
「ヒャー」
キャーではなかった。胸に声がつまってキがヒになった。キャーを通り越した悲鳴だった。ケイコはとっさに茶色がかった髪を振り乱した。棒ぞうきんを投げ捨てた。小学校の木椅子を背もたれと座面のヘリを両手でわしずかみにした。ぼくの頭上めがけて、ちいさく
「ウー」とうなって頭上へ高く振り上げた。ケイコはぼくより背が高かった。
「ヒェー、ヒが狂った、ヒが狂った。低能のヒが狂った」ぼくも、キがヒになった。ぼくはひっくり返った。尻餅をついた。あわてて向き直り四つん這いになり、鉄砲玉のように教室から飛び出した。立ち上がって一目散に廊下を走った。椅子を振り上げたままケイコは廊下を追ってくる。ぼくは上靴のまま運動場へと逃げ出した。運動場の一番隅にある砂場まで来て立ち止まり振り返った。ケイコは運動場までは追って来なかった。廊下の端で、振り上げた椅子の座面を頭にのせたまま砂場のぼくをにらんでいた。そして椅子を頭にのせたまま、もとの教室へ帰って行った。ケイコの哀れな後ろ姿をぼくは会心の笑み浮かべながらながめた。やっと仕返しをしたと誇らしい気がしたのだ。そして、ケイコをなぐった時、誰も周りにいなかったはずだと頭の中で最初に確かめた。もうひとりの当番は、あの時バケツの水を交換に行っていて、教室にいなかった。先ほどのできごとは誰にも見られていない。しめた!助かった。それしても、椅子を振り上げられて、尻餅をついて逃げたのは格好が悪かった。殺されるかと思った。ケイコは何をするか分からん。平手打ちをくらったぐらいで、椅子を振り上げるなんて、あほは怒ると何をするか分からん。とうとう仕返しをしてやった。オンナの子を平手でなぐった。けんかはしょちゅうしたが女の子をなぐったのはその時が初めてだった。
 放課後の運動場に冬の北風が吹き荒れていた。砂ぼこりが舞った。不意にぼくは気付いた。言い付ける。ケイコが泣き叫んで、先生に言い付けるのではないか。言い付けるにきまっている。教室ですでに泣いていて、もうひとりの当番が水くみから帰って来て、わけを聞き、今頃、オンナ先生を呼びに行っているかもしれない。後悔が目に入る砂ぼこりのように襲ってきた。ケイコをなぐったことに、後ろめたさが湧いてきた。たいへんなことをしてしまった。あれでもオンナだからな。なぐった感触が、手にまだ残っているような気がした。そんなにきつくなぐっただろうか。なぐった覚えはないんだ。きっと、そうたいしたことはないんだ。都合のよい方へ、よい方へ、ぼくは考えようとした。頭の中が混乱していた。ケイコは泣くはずはないんだ。泣くなんてありえない。ケイコが泣くのをいままで見た事がない。きっとだいじょうぶだ。ぼくはどうしようどうしようと考えながら手を握りしめていた。手の中がなんだかねばねばする。あのぐらいの平手で、もうしびれているはずはないのだ。握りしめていた手の平を開いた。
「あっー。」ぼくはあわてて座り込んだ。右の手のひらを地面の砂になすりつけた。ケイコの鼻汁がくもの巣みたいに手の中でベチャッとつぶれていた。

ケイコは掃除を途中で放り出したまま、ぼくのいる砂場を見向きもしなかった。さっさと先にひとりで家に帰ってしまった。ぼくはあやまる機会をうしなった。先生や、クラスのみんなになぐったことを内緒にしてもらうために、ぼくはあやまっておかなければならなかった。ぼくはそうじが終わったことを先生に伝えた。どうにかしてケイコをごまかせないかと、まるめこめないかと考えながら急いだ。追い着こうとケイコの後を追った。ケイコの家の前まで来ると、すでにケイコは、土塀の前を通るはずのぼくを待ち構えていた。松の木に登り、枝分かれしているいつものところにいた。いつもとちがって、仁王立ちにそこに立っていた。そして、言った。「あした、先生やみんなに言い付けてやるからな、今度は許せへんで」ケイコは怒れる猿のように枝をおもいきりゆさゆさゆらしながら宣言した。

 あんな事をしなければよかった。砂浜に打ち寄せる波のように繰り返し、繰り返し、一晩中、後悔が押し寄せてきた。なかなか寝むれなかった。言い付けられる。言いつけられれば、先生から委員長のくせに、なんと言う野蛮な事をするんですか。委員長のくせに、恥を知りなさい。ぼくはきっと委員長のくせにと言われて、叱られるだろう。ホームルームの時間に、黒板の前に立たされて、ケイコにあやまりなさいと、先生は言うだろう。そして、ぼくはいつも馬鹿にしていたケイコにごめんなさい、と頭を下げるだろう。ぼくの方から手を差し伸べ、握手させられるに決まっている。そんなさる芝居はいやだ。十一年間、生きてきた中で一番恥ずかしいことだ。クラスのみんなは、ケイコをなぐるなんて、目を丸くし、ぼくに乱暴者のらく印を押すにきまっている。さげすむような目で、これからずっと見るだろう。ますますぼくは嫌われるだろう。男が弱いオンナをなぐる。それは野蛮人かゴリラのすることだ、とオンナたちは言うに決まっている。ケイコは椅子を振り上げてもオンナだ。先生もオンナだ。ぼくはリーダーではなく、学級の野蛮な雄ゴリラにされてしまう。それに、ケイコはクラスで一番人気があるから、ホームルームの時間に、ぼくの悪口が言われるだろう。運動場でつばをはいた。赤信号を渡った。木の陰に隠れて、木に向かって雄犬のように立小便をした。次々に並べられるだろう。ぼくが議長をしているホームルームにみんなのげんこつを握った手が、いっせいに挙がるだろう。かちどきのように、謝れ、謝れ、と挙げられるだろう。その上、ケイコやぼくを知らない先生や生徒は、この学校にほとんどいない。職員室で、運動場で、廊下で、あのれき岩がケイコをなぐった。ケイコをなぐって、あやまった。この事件はすぐに広まって、ほかの学級の先生がぼくを見つけると近寄ってくる。どうしてなぐったのかと、耳もとで、ここだけの話だから、その秘密を教えて、小さな声で尋ねるに決まっている。そして先生から、ここだけの秘密は、ああだ、こうだ、と学校中のうわさになり、PTAまで知るようになるだろう。お母さんもすぐに耳にするだろう。お母さんもオンナだ。オンナをなぐるとはなんという事をするのか。ひどく怒るに決まっている。町中のうわさになるかもしれない。ぼくが歩いていると、町中のみんなが目を三角にする。あいつがケイコをいじめたやつだ。さも聞こえよがしに言うだろう。ケイコのお父さんは、旧家で有力者だから、ぼくの家は引っ越さなければならなくなるかもしれない。いじめっ子の住む家と玄関に張り紙をされ、町におれなくなるだろう。
――――みんなケイコのせいだ。
じっとねむれないで見つめている真っ暗な天井から、突如、ぼくは大きな怒りが落ちて来るのを感じた。ケイコが悪いんだ。みんなケイコのせいだ。ケイコがぼくにあだ名をつけるからいけないんだ。

 次の日、眠い目をしばたたかせ、頭の中を混乱させていた。うつむいて、ぼくは教室の引き戸をゆっくり引き、敷居をまたいだ。ストーブの暖かい空気と和やかな話し声。クラスのようすに聞き耳をたてながら、ケイコを探して教室中を見渡した。
「ナカムラくん。おはよう」ストーブを囲む輪の中から、ひときわ背が高くて、頭をこっくりと下げているケイコの大きな声が飛び込んできた。声の大きさに教室のざわめきが一瞬、途切れた。ストーブの輪がいっせいに赤いほてった顔を、ぼくに向けた。ぼくはおはよう、と返事する言葉がのどにひっかかり、陸に上がった魚のように口をパクパクさせてしまった。言い付けたのかどうかを最初に探らなくてはならない。ケイコをじっとすがるような目で、言い付けないでほしいと見つめた。ケイコもストーブでほてった赤い顔をこちらに向けている。目じりに、合図でもするようにうすらわらいの小さなしわをケイコはつくった。ああもうだめだ。ぼくは視線を外した。ケイコは、いつもは班長、あるいはれき岩と呼び、ナカムラくんとくんをつけてまで正確に名前を呼んだことなど一度もなかった。ぼくは目じりのしわを、うすら笑いを、先生に言い付けてやったと言う表情と思うしかなかった。くんを付けたのは覚悟をして置きなさいという脅しなのだと考えた。今までぼくはケイコにああしろ、こうしろと命令していたが、今ではもう、ケイコの顔色やようすをうかがって、ケイコからああしろ、こうしろと言われたように右往左往している。おはようだけならまだしも、今までのあいさつと同じだが、ナカムラくん、くんまで付いていた。ストーブの輪がいっせいにぼくを見たのは、ケイコの大声のせいではなく、ぼくの事がついさっきまで、そこで話されていたからに違いない。ああ、もうだめだ。ああもうだめだ。言い付けられたに決まっている。ストーブでほてったケイコの顔が大きくふくらんで、目の前にせまってきた。鼻を垂らした赤鬼になっていく。

 先生が来て授業が始まった。ケイコがストーブから隣の席に来て座った。もう言い付けられたのだから、今さらあやまっても仕方のないことだ。どうせ叱られるのだから。どうせみんなも知っているのだから。さらし者になって、頭を下げ、ケイコと握手しなければならないのだから。ケイコにやさしい、正しいエライ人だと思われるためにだけ、きのうなぐって、ごめんなさい、と今あやまるなんて、馬鹿らしい。ぼくは隣のケイコを無視しようと努めた。そして、せめてこのようになったら、ケイコにだけは、きのうの事をぼくが後悔しているのを知られたくなかった。今まで、馬鹿あつかいしていたやつに、振り回されている自分を気付かれたくなかった。どうせ頭を下げ、あやまるのなら、それは本心からあやまるのではなく、仕方のない演技としてあやまる方が、格好がよく、自分の自尊心を保てる気がしていた。そうすることによって、いまだにケイコへのぼくの優位をたもっておきたかった。それはあの松の木から呼びかけられた時、口笛を吹いて、知らないふりに通り過ぎた無視の仕方に似ていた。
 ぼくは一心に黒板を見ていた。何も頭に入らないのに、ただ一心に黒板だけをにらんでいた。黒板に書くチョークのあたる音がコツコツと聞こえ始めた。棒ぞうきんの柄でケイコが叩いた床の音のように思われた。横目にうかがうと、ケイコはいつもより背筋を伸ばしていた。真っ直ぐに黒板を見て、幾らか緊張しているようだった。棒ぞうきんを金棒のように持って立った仁王の姿が、今は机に、肩をいからして威厳をもって座る裁判官になっていた。そして、ぼくは、ちらちら判決をまって、上目使いに裁判官をうかがっている犯人であった。大きく大きくケイコは閻魔大王になり、ぼくは小さく小さく罪人になっていくようだった。
 優位に立とうとしている虚勢も、ややもすると、ケイコがそこにいるというだけで、岩にたがねをこつこつと打ち込まれ、小さく砕かれていく石ころのようだった。そういえば、ぼくは、れき岩であった。そして、もしかしたら、ケイコは、ちゃんとぼくが虚勢を張っていることも、ひどく悔やんでいることも、知っているのかも知れない。ぼくがずるく掃除をさぼっているのを知っていて、腹を立てていたように、腹の中で、ほらみろ、と笑っているのかも知れない。以前ぼくが、ケイコを馬鹿に扱っていたのは、本当は、ケイコに敗けているのを、自分でも気付いていて、単に勉強や体育ができたという虚勢でしかなかったような気がしてきた。虚勢で演技していた。今演技しているように。ケイコがいるだけで、ぼくはコロコロ転がっている石ころのようだった。ケイコにけられる石けりの石、そんな気がして、ぼくは自分が悲しくなった。ケイコに足げにされて、ころころとぼくは転がっていく、そして、真っ黒に口を開いているマンホールにポトリとれき岩が落ちた。  ---ケイコごめんなさい。---と思った。不覚にも、ぼくは涙を一粒、机の上に落としたのだ。ケイコに気づかれまいと、あわてて親指で涙の粒をこすると、どっと涙が両目からあふれそうになり、いっきに教室の風景がにじんでしまった。

 とうとう、授業が終わり、終わりの会の時間になった。先生は教壇からドアの前にしりぞき、ぼくは委員長の仕事である議長を務めるべく教壇に上がった。
「これから、終わりの会をはじめます」いつもの二、三の女の子の手が挙がった。ぼくはその内の誰が言うのだろうか。先生を横目にうかがった。しかし、一段、高い所に立つと妙に覚悟も決まるのだ。挙がった手を、ぼくは順々に当てていった。男の子の誰々が道の真ん中を歩いていた。男の子の誰々がブランコを独り占めにして替わってくれなかった。女の子たちは教室の隅で聞いている先生に告げ口をするのである。言われたものはうつむいて、立ち上がり、ぼくはそのたびにその人に向かって、
「そう言う事をしてはいけませんね」と言った。彼らはニィッと笑って、頭をかいて、ペコリと頭を下げ、
「はい」と言った。その場をごまかして席に着くのだ。そう言う事をしてはいけませんね。自分のためには、どのように言って、ごまかそうか。ペコリと頭を下げて、笑うだけでは許されないだろう。問題は暴力なのだ。弱いオンナへの暴力とされるのだから、オンナたちが総勢で、ハチの巣をつついたように、ヒステリーに成るに決まっている。こんな重大な問題は今までに取り上げられたことなど終わりの会で一度もなかった。先生もオンナだ。その上、ぼくは壇上の議長だ。どうしよう、いつ来るか、いつ来るか、ぼくは青れき岩になって、待ち構えた。手が挙がっていないのである。教室を見渡すしぐさで、ケイコと先生を見た。誰も手を挙げなかったので、終わりの会をおしまいにしようと、
「もうありませんか」言ったとたん「はい」とケイコが手を挙げた。ぼくの声はうわずって、
「平井さん」と指さす手はブルブル震えた。
「うちな、六年になったら、他の所へ引っ越しするねん。ほかの学校へ転校するねん。ほかの学校へ行かなあかんねん。いややけど、仕方ないねん。」とケイコは言った。
「そうですね。平井さんは、おとうさんの仕事の都合で六年生からほかの学校へいきます」と先生が割って入った。教室に
「ええっ」と言う大きなどよめきがわき上がった。

帰り道、ぼくは、歩きながらすまない事をしたと、初めて後悔した。言い付けられなかったという安ど感が、より一層すまないことをしたと思わせた。うつむきながら、いつもの土塀の下を歩いていた。どうしてケイコは言い付けなかったのだろう。事件の事をお父さんとお母さんに話したら、「言い付けなさい」と言うに決まっている。「そんなずるいやつはひどい目にあわしてやりなさい」と言うに違いない。だれに聞いても「言い付けなさい」と言うだろう。どうしてケイコは言い付けなかったのだろう。言い付けるようなことは、しないほうがいいと、どうして思ったのだろう。あんなずるいぼくをどうして許してやろうと思ったのだろう。ケイコがぼくを許しているはずはないのに。ケイコはなぜ復讐をしないのだろう。ぼくはあだ名をつけられ、仕返しをしよう、いつかは、ケイコをたたいてやろうとねらっていたのに。
うつむいて地面を見ながら歩いていると、
「おい、れき岩」頭上からのケイコの声が突然聞こえた。ぼくはびっくりして、塀の上を振り仰いだ。いつもの松の木の上にケイコは腰を掛けていた。
「おい、れき岩、これあげるわ」
塀越しにケイコはボールを手渡すように柿をひとつ放り投げた。ぼくは両の手でそれを受け取った。
「ありがとう」と聞えないほどの小さな声で礼を言った。ペコリと頭を下げた。そして聞こえないほどの小さな声で
「きのうはごめん」とケイコに、ぼくはあやまった。聞こえただろうかと思いながら、背を向け、柿を両手に包んで、早足にその場をたち去ろうとした。逃げようとするぼくの背中に、空一面、ケイコの大きな声が響き渡った。
「れき岩、さようなら」ケイコのいる屋敷の方を、驚いて振り返ると、松の木に座っているケイコのむこうに、夕日が満開であった。

           3
五年生の修了式の当日、ケイコと一番仲の良かった同じクラスのオンナの委員長と、ケイコは廊下で立ち話をしていた。別れのことばと五年間の思い出を楽しそうにふたりで話していた。ケイコは近くにぼくがいるのに気付くと、五年三組のもう誰もいない教室を振り返りながら、
「ケイコな、大阪市内の学校に行くねん。五年生楽しかったわ。この間、れき岩に平手打ちで、なぐられてん。痛かったけど、言い付けてやると言ったら、隣の席で、れき岩、泣いとんねん、涙落として、机の涙、指でこすって、慌てて拭いとんねん。可哀そうになったから、言い付けるのやめたんや」そばにいるぼくに、わざと聞こえるように、ケイコはオンナ委員長に話した。横目にぼくを見てニヤッと笑って、それからぼくの方に振り向いて、
「中村くん、さようなら」と言った。くん付けでぼくの名前を呼んだ。
「さようなら」ぼくは、ケイコに聞こえる声で答えた。そして、ケイコの前を急いで通りすぎながら、
「さようなら、平井さん。ごめんなさい、 柿、食べたよ。」今度は、大きな声でさん付で名前を呼び、聞こえるようにはっきり言った。

       4
それから四十年、今日の新聞に府会議員の立候補者の履歴と主張の書かれた政見の広報が入っていた。平井 ケイコ。*****からの立候補。ケイコは前年亡くなったおとうさんの後を引き継いで立候補したのである。
ぼくはクラスで数人しか行くことのない名門高校に進んだ。そこでケイコと再会した。ケイコがどのようにして勉強ができるようになったか。どのようにしてうりざね顔の美人になったか。そして松の木によじ登り、チューしてもらうぼくたちの麗しい青春の話は次回にしよう。ただ一点、最後にケイコがきっと素晴らしい府会議員になることをお伝えしたい。

ぼくは大切にあの松の木から投げてもらった柿を両手で包みながら歩いた。言い付けられなくてほんとうに良かった。
---良かった、良かった。---許してくれたのだ。
うれしくてしようがなかった。ぼくは白い土塀の通りから誰もいない路地に入った。おいしそうだと手の平で何度も磨いて、橙色の果物に大きな口を開いてかぶりついた。思わず、ペッと地面にはきだした。しぶ柿であった


                   (原稿用紙35枚)



散文(批評随筆小説等) チューしてあげる Copyright 島中 充 2015-10-27 11:45:55
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