普通の愛
もり


SOSの言葉はもはや、何の意味もなさない。誰も最初から、君を助けてはくれないのだ。僕は何かを奪われそうになったら、その銃口を向け、引鉄をひくしかないのだろう。
僕は何度もSOSを発信した。
そして、拳を握りたかった。
でも小さな名もない花を、
僕以上にか弱い愛を、僕は殺すことを躊躇ったんだ。
東京の朝はいつも通りだった。
僕という、根無し草は、とうとうこの深い森で見えなくなる。
ハイヒールの音が、まるで僕の脳を突っつく啄木鳥のようだ。電車内は朝から腐臭がする。
誰もが座りたい・・座りたい。
そして出来れば目覚めたくない。

現場へつく。
僕ら交通費も出ない労働者たちは、スーツの若人に先導され、バスに乗りこむ。先週も見た顔がいる。
そろそろ散髪したほうがいいんじゃないか、なんて思っても、永遠に口にすることはない。
言葉にはもう飽きたんだ。
「おい、19番」
派遣先の社員がそう呼ぶ。Tシャツにプリントされた番号。浅ましい渾名だ。童顔だからって、舐められては困る。僕は指示されたシマの中から、いくつかの封筒を抜き取る。そして、それ以外を梱包した。
大企業の株主優待券が封入された封筒。おべんちゃらにまみれた文章。
自然界への無差別テロ行為。
糾弾する者のいない世界で、ブタは本当に安らかな顔をしている。
今日は6時間で仕事が終わってしまった。日給にして5400円。引く交通費660円。引く煙草。引く昼飯、晩飯・・。
僕は毎日積み上げて、
積み上げては崩して、それをまた積み上げる。心だけが一方的にすり減っていく日々に。

16時。駅から夕美に電話する。
「今日、行っていい」
珍しく二つ返事で了承してくれた。良くも悪くも言葉少なめなところが彼女のいいところだ。
昔のことも、アテにならない未来も聞こうとはしない。興味がないだけかもしれないが。「考えすぎよ」
って言うだろう。人は誰も過去を背負い込んでいる。いや、厳密に言うとこびりついている。過去の集積体、なんだが。夕美はまるで、人はその一日一日に生まれ変わることをまだ信じているかのように、朝が来るたびに厳粛な顔して、心をこめて僕に言う。
「おはよう」
梅雨が明けたばかりの空は、まだ遊び足りない子どものように、暮れる気配もなかった。そう、夕美のあのおはようが聞きたくて。衝動的に電話した理由を見つけたら、少し心が軽くなる。

最寄りの駅について、コンビニに立ち寄る。ゴミを買うためのゴミが入った封筒を、当たり前のようにゴミ箱に突っ込む。老婆が、ダイエット本を食い入るように読んでいて、可笑しかった。
2人分のビールと、適当につまみを買う。何だかんだ、食事は用意してくれてるだろう。そういうやつだ。
会計を済ましたあと、クジ引きをやらされた。偶然キャラクターものの皿がペアで当たった。

夕美の家へ続く坂道をゆっくりと登りながら、急に胸がつかえた。
きっと理由なら、涙の数以上にあるだろう。
坂道をすれ違う、母の膨らんだお腹を少年が撫でている。
老犬を、少女がかばうように散歩させている。
誰もが、小さな愛をその身体から滲み出していて、
痛かった。でも、
言葉には飽きていた。
泣いてもいいだろうか。夕美。きみの胸で。どうしたの、柄にもなく。って笑ってくれるだろうか。そうでないと、泣けない気がする。

チャイムを押すのに、煙草2本が費やされた。
ドアにうっすらと、夕陽がさしてくる。パタパタッと、スリッパの音がする。カチャリッ

「おはよう」

寝ぼけまなこの夕美が照れ笑う。
早いよ。僕の花が笑う。



散文(批評随筆小説等) 普通の愛 Copyright もり 2015-07-10 03:40:19
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