チェーンソー
そらの珊瑚

お隣りさんから伸びている皐月の枝に腹を立てて
お父さん、チェーンソーで切ったのよ
根元から


母の愚痴のほぼ全ては父のことで占められているから
電話はいつも父への悪口で終わるのだった
母が何を言っても耳を貸さない父
それどころか倍になって反論し
正論とか常識といったたぐいの説得ほど
油に火を注ぐような結果になるので
もう母は父に何も言わないと決めたらしい
隣家に頭を下げ
無残に切られた枝の後始末だけをするという

隣家に住む父の兄との確執は
父が少年時代から延々と続く
こじれにこじれたもので そこには
誰も太刀打ちできないような深い年輪が刻まれている

父は優しい人だった
子らとにぎやかな鈴虫を育てて
夏の夕方には庭の植物たちに水をたっぷりとやるのが日課だったが
父が夜勤の日には
父との約束通り
小学生だった私がそれを真似た
乾いた地面に撒いた水が黒いしるしを付けるも
それはあっという間に蒸発してしまうから
植物の根をちゃんと潤すまで
根気よくしなければならないと父から教わった
充分なところで終わればいつも
私の足はたくさんの蚊に食われていて
父がそれをみつけると必ず
長ズボンを履いて水撒きをしなさいと言う
いちいちそんなことをするのは面倒で
夏中私の足はボコボコだったけれど
花は花として命を咲かせ
野菜は野菜として実を成らせ
私は父との約束を果たした気がしてただ嬉しかった

年老いた父の手は事故の後遺症で奇妙に曲がって
シャツのボタンひとつ留めるのもやっとだというのに
チェーンソーとは……
火花を散らし
鋭い大音量を響かせて
失って久しい力を奮い立たせている父の
ほとんど狂気に等しい生き生きとした姿が
娘の脳裏には浮かんでくる
血でつながった人と人をつなげる鎖も
断ち切って楽にさせてあげたい
――けれどチェーンソーで切ることが出来るのは形あるものだけ
父のそれはおそらく容易には切れないものなのだろう

好きだったテニスも社交ダンスも出来なくなった父は
憎しみだけは手放してなるものかと
長い一日をベッドの上で今日も
それを増幅させながら
生きる糧としているのだろうか


自由詩 チェーンソー Copyright そらの珊瑚 2015-06-24 14:28:12
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