旅人の木
やまうちあつし

町を出る日
旅人は一粒の種子を
宿屋の庭にそっと植えた
宿屋の主人にも女将にも
内緒でこっそりしたことだった

次に旅人が戻ったとき
種子は芽を出していた
旅人は快活に
海辺の村落の話を聞かせた
   
やがて時が過ぎ
その植物は
人の腰の辺りまで成長した
やって来た旅人は
いとおしそうに緑の葉を撫で
訪れた山上の
町の話を聞かせてやった
   
その後
戦争が起こった
どの土地も悲鳴と炎に包まれた
久方ぶりに宿を訪れた旅人は
自分と同じぐらいの
背丈になったその植物を
悲しそうに見つめ
黒い都の話を聞かせた
   
やがて時が経ち
国の名前が変わって
何が幸せかということも
考えが少し変わってしまった
それは悪いことではなかっただろう
どんなものでも
幸せはよいものに違いないのだから
   
しかし旅人は
いささか疲れすぎていた
新しい幸せの中を
これまで同様旅をするには
マントは煤と埃で汚れすぎていた
   
やっとのことで
いつもの宿に戻ってきたとき
旅人の背丈をはるか越えた
大きな樹木に出迎えられた
旅人はそれが目に入ってか入らずか
よろよろと倒れこむ
育った樹木は枝を折り曲げ
旅人を抱きとめた
   
おかえり、という言葉が生まれたのは
そんな火曜日のことだった   
   


自由詩 旅人の木 Copyright やまうちあつし 2015-05-01 17:58:20
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