失われた醤油を求めて — たもつさんの詩の印象 1 —
佐々宝砂

以前やませば(山田せばすちゃんのこと)とメッセで話していて、たもつさんの詩とやませばの詩の違いは、たもつさんのほうがマジメそーに見えることだと私は言ったが、よく考えればちょっと違うな。やませばの詩には「愛人」ごくまれに「妻」が登場するが、たもつさんの詩には「妻」ばっかりが登場するのだ。「妻」を大事にしてるいい夫という感じがするじゃないの。そこんとこがやませばとは違うのよ。なんてことはさておいて。

たもつさんの詩で最初に目についたのは、「醤油」という詩だった。いちど読んで「おっ」と思った。なんかひっかかった。「ある日、この世から醤油がなくなってしまった」というフレーズは、寺山修司の「ある日、この世から海がなくなってしまった」というフレーズの変奏であるように思えた。そしてその変奏は、確かに必要なことであると私には思われた。もはや、失われたものは、「海」のように雄大なものではない。それは醤油のように、卑近で俗なものでしかないのかもしれず、しかし寿司にソースをつけて食うのはあんまりだから、ひとは失われた醤油をほのかに夢想する。その夢想が、若さゆえのあやまちと簡単に片づけられるとしても。このように、たもつさんの詩には、しばしば、なんらかの喪失が描かれる。失われるものは、たとえば「醤油」であり、「たわし」であり、「ネクタイ」であり、「ネギ」であったりする。はなはだしいのは「天ぷら」という詩で、語り手以外のすべての存在が失われてしまう。しかしそこまで何もかもが失われる詩は例外で、たいていの場合、失われるものはさほど重要なものでも大きなものでもない。

>テーブルの上に何かを忘れてきてしまった
>いったい何を忘れてきたのだろう
>
>それは大きなもの
>ではなかった
>かといって小さなもの
>でもなかった
(たもつさんの詩「忘れ物」より)

「海は巨大な忘れ物である」と寺山は書いたが、ここに描かれている忘れ物は、もっと曖昧でほのかな何かだ。確かに、何かが失われてしまっているのだが、それが何であるかは明らかにされない。作者にもわかっていない、というよりは、そのものがなんであるか本当に明らかにしてしまったが最後、そのものは今度こそ決定的に失われてしまうのではないかという畏れがあるのではないか。だからこそ、「本当の名前」ははるか遠くに霞み、『「 」に言葉を入れてみろ』の「 」に入れられるべき言葉は確定しないのではないか。

その何かが存在しなくとも、人は生きていられる。ネギが存在しなくとも、生きていられるように。そして、何かが失われることよりも、失われてなお生きてゆけることに気づく方が悲しい。悲しいが、ひとはそれでもやっぱり生きてかなきゃならないのである。てなわけでまだ続く。


散文(批評随筆小説等) 失われた醤油を求めて — たもつさんの詩の印象 1 — Copyright 佐々宝砂 2003-11-08 15:21:33
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