白熱 リバース
佐々宝砂

1.

洞窟は亜硫酸ガスに満ちている。
酸素濃度計は警告の悲鳴をあげ続け、
俺のマスクは目詰まりしている。
俺が生きているのはどうやら奇跡的なこと。

俺を拒み人間を拒む洞窟世界で、
人間を知らぬ蜘蛛が繊細なタピスリーを織る。
まだ名のない蜘蛛だ、
人間の知らぬものに名がないのは当然のことだ。

ここで生きる資格のない俺の視覚、
暗黒では意味のない視覚、
色彩を持たぬはずのものに、
色彩を見ようとする俺の視覚。

蜘蛛よ!俺に毒を与えろ、
俺は酸素不足では死なないようなのだ。


2.

俺の鼻は奇妙に酸っぱい鋭い匂いをとらえる。
鼻水のように粘度の高い何かが、
洞窟の天井から垂れ下がっている、
懐中電灯に照らし出されたそれは美しい。

それは高濃度の硫酸だ、
酸素ではなく硫黄で生きるバクテリアの、
この洞窟の生命の源たる硫酸だ、
俺の生命とは全く無関係な生命の硫酸だ。

俺はそれに触れることを諦めてさらに奥へと歩く。
ねっとりとした闇は湿っぽく、
その奥からは滝の水音が聞こえる。

どこからきてどこへゆく水なのか、
俺はあの水に触れたい、
人間は誰も触れたことのないあの水に。


3.

触れもせで闇から闇へ落ちゆくは告白以前の恋ですらなく

盲目の白蜥蜴ひとつ岩にあり白き蜘蛛食む音の白さよ

地表より遠きここにも風はあり流れてやまぬその硫黄臭

灯りひとつ掲げて岩の壁に吹く唾液に粘る赤土のいろ

赤土で記すこの歌だれひとり知らぬとしても読まぬとしても

灯り消して目の前におくたなごころ見えぬ身体は存在するか

石膏の結晶のなか閉ざされて不在の人に捧げる欠片


4.

岩壁に吹きつけた唾液混じりの赤土が、
ぼんやりと曖昧な掌の輪郭線をかたどる。
酸素不足のせいだろう、
俺は次第に意識が遠くなってくる。

俺の身体は全身で危険を感じている。
鎖を繋がない俺という生命にも、
繋がないなりに生命の潮があって、
その潮は俺を生かしておこうとするのだ。

白い洞窟の白い石膏の壁に、
俺は俺の生命を残していこうとする、
なんのためにと問われても俺には答えられない、

俺はただそうしなくてはならない、
俺のなかの生命以外のものが命ずるのだ。
俺のなかの非人間的な白熱が命ずるのだ。


5.

いったいどこからきたというのか、
いったい誰が与えたというのか。
俺のなかのこの白熱。
俺は惑い悩む閑もなく洞窟に白熱する。

生む性に生まれながら生まない俺、
俺は俺が女の性を持つことを否定しない、
俺が俺と名乗るとしても、
それは男性性への仮託でない、

亜硫酸ガスに満たされた洞窟の、
冷酷な白熱に、
「私」という一人称はいかにも弱いのだ。

不在の憧れが不在であるとしても俺は憧れやまぬ。
蜘蛛よ!
おまえの毒ですら俺を殺さないらしいよ。


自由詩 白熱 リバース Copyright 佐々宝砂 2003-11-08 12:30:49
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白熱。