六時、現実、寝息
はるな


朝の六時に開けたカーテンを夜の六時に閉める。正しさを追って、(正しくないことばかりをおこないながら)、たどり着くのは圧倒的な現実だ。たとえば紅茶を淹れるまえにはポットおよびカップをあたためておくこと、ほこりは上から下へおとすこと、布を裁つときはきちんとアイロンをあててからにすること。
正しさは―それを真実と言ってしまうこともできるかもしれない―、いつでも大事なことだ。でも、現実―これを生活、と言えるだろうか―にひれ伏している。

愛は現実だろうか?

アイロン台の孤独や窓枠の恋は現実だ…剥げたマニキュア、萎びてゆく切り花、固く締められた瓶のふたと同じように。ひたいに細い毛をはりつけて眠る娘と同じように。
現実、を考えれば考えるほど、わたしの正しさは影を薄めていく、遠く、掴みづらいものになっていく。
いつか詩を書かなくなるとすれば、それは悲しいでもなくうれしいでもなく、ただ当然のようになるだけだ、と思ったことがある。悲しいでも、うれしいでもなく、しみこむように忘れていくことが、もういくつあっただろうか。時間は覚えているいくつかのことよりもはるかに膨大な覚えられていない物事によって作られている。わたしは、わたしが覚えていない多くのひとや物事によって作られているし、そのことはわたしの存在を強くしている。
それならば、いま手にとって見ることのできる現実に、どれほどの意味があるかしら、意味のないことばかりだとしたら、それはやっぱり素敵なことではないかしら。そして、ここに眠っている、触れることのできる、娘のかたちを、愛でも現実でもないとしたら、わたしはどういう詩を書けばよいだろう。



散文(批評随筆小説等) 六時、現実、寝息 Copyright はるな 2015-02-18 20:05:46
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