いまのところは
ホロウ・シカエルボク




衝突の挙句こぼれたガソリンに火がついて、薄汚れた街角はあちこちでウンザリするような昼間、警官や消防隊員たちの怒号と野次馬どもの罵声が下手なモブシーンみたいに飛び交って絡み合って、真夜中は破裂している、通りに面したあるアパートメントの六階の一室では、そんな景色を横目で見ながらひとりの売春婦がいままさに首を吊らんとしているところ、起動しているノートパソコンに取り付けられたウェブカメラで、その一部始終は配信される―予定―彼女はにっこりと観客に笑いかけながら、内心カメラが表の騒ぎを拾っていないかと心配になっていた、もしも、表の騒ぎのせいでこの場所に目星をつけたどこかのお節介が、警察に通報するか自分で飛び込んできたりなんかしたら―困るのだ、助けて欲しいという気持ちすらなくなってしまったから、わたしは死ぬのだから…こんなことなら、窓が映るようなアングルにしなければよかった、と彼女は後悔した、少しくらいロマンチックに見えるような、そんな考えがアダとならなければいいのだけれど―最後の最後、本当にお終いの馬鹿な女の馬鹿な後悔―自嘲的に笑って、天井から吊るしたロープを確かめる、大丈夫―値段の割りに頑丈に出来ているのが気に入って借りた部屋だもの、これだけは失敗するわけがない―大成功、決まってる―カメラに手を振り、運命の円環に首を突っ込んで、椅子を―そのとき、階下が騒がしくなっていることに気づく、どうしたんだろう―?たくさんの足音がする、階段を駆け上がってくる―誰かが自分のしていることを警察に通報したのだろうか?いや、それはない、早過ぎる―配信はさっき始めたばかりなんだもの―足音はバラバラに分かれて、部屋という部屋のドアを叩いている―彼女の居るその部屋もだ―「誰か居ますか?」「火事です、避難してください」「火が燃え移りました、避難が必要です」―ああ!どうしてこんなときに…!こんなときまで…!彼女は思わず涙をこぼしそうになる、だが、こらえる―笑って死ぬって決めたんだから―ノックの音は激しくなる、居ないと思ってくれないだろうか?灯りがついているから難しいかもしれない―返事をしないで居たら行ってくれるだろうか?ああ、どうしたらいいだろう…うろたえているうちにドアは蹴破られる、駆け込んできた消防隊員は彼女の状況を見て一瞬ぽかんとする、が、一刻を争うのだ、彼女の首からロープを外し、抱きかかえる―「どうやら、いろいろ間に合ったようだ」―女は唖然としてかかえられたまま、昔何かで読んだ言葉を思い出す―「本当の悲劇とは、いつもどこか滑稽なものさ」―あれは確か、エドワード・バンカーの最初の小説じゃなかったかしら…?


火は早いうちに消し止められ、不幸中の幸い、彼女の部屋はほとんど被害を被らずに済んだ、ただひとつ、ショートしてしまったのかまったく反応を示さなくなったノートパソコンを除いては…彼女はそのパソコンを見ながらぽろぽろと泣いた、どうしていつも、こんなことになるのだろう?こうしようと決めたこと、こうしたいと思ったことは、いつもなにかのせいで駄目になる―悔しくて仕方がなかった、どんなに泣いても涙は止まらなかった、しゃくりあげながら彼女は舞台へ向かった、観客はもう居なかったし、彼女のメイクは最悪だった、せめてと精一杯考えたアングルもロケーションも、すべてが駄目になった―だからこそ、このまま幕を引かなければならない、笑って死にたいとか、きれいに死にたいとか、もうそんな気持ちなんてない、わたしが、わたしらしく死ぬだけだ―それが、彼女の出した結論だった、椅子に上がり、輪っかに首を突っ込み、まっくらなノートパソコンの画面に向かって、「お待たせしたわね」と言った、ようやくそれだけ言った、そして、無理矢理に笑って、手を振った


まっくらなノートパソコンの画面に、頑丈な天井からぶら下がって、打ち上げられた魚のようにびくんびくんと痙攣している彼女の姿が、うっすらと映っていた



避難したひとたちの中に彼女の姿がないことに気づいた隊員が息を切らしながら再びそのドアを開けたときには、もう手遅れだった、彼女は手のかかるシャンデリアのように、硬直してぶら下がっていた


隊員は彼女に背を向け、携帯電話で近くに居る仲間に連絡した、「そこにいる警官をだれか連れてきてくれ」



騒ぎは終息しつつあった、被害者は衝突した車の双方の運転手と、天井からぶら下がっている女がひとりだけだった―





いまのところは。






散文(批評随筆小説等) いまのところは Copyright ホロウ・シカエルボク 2015-02-06 00:05:08
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