火曜日、あなぐらで気まぐれ
ホロウ・シカエルボク





朝の光を呪うなら寝床の中で、積もり積もった夜の逡巡に埋もれて震えながら
妙にかすれた猫の鳴声が聞こえる、目を覚ましたばかりなのかもしれない
大型の車両が集まり、道を掘り返す準備を始めている、今日は一日騒がしいままで終わるだろう
ポストに手紙が投函される音、用も無いのに玄関まで出て行くほどの価値がある手紙だろうか?回収するのは同居人に任せよう
外は晴れているけれど遮光カーテン越しの明かりで満足、のんびりと歩くのは先週にやりつくしたし、なにかを見つけても手に入れる金も無い
U2の悪名高いアルバムを聴きながら簡単なものを食ったりコーヒーを飲んだりした、物の価値はそれを欲しいと思う人が決めるのだと、あれはたしかコミックの中のセリフだったかな
午後三時には工事車両は居なくなってた、ケーブル埋設工事をずっとやってるから、きっとそれに関係するものなのだろう
昨日の仕事の汚れがまだ、指先に残ってる気がしてシャワーを浴びた、窓に日が当たる時間に風呂に入るのは好きだ
「ら抜き言葉を使っています」などと、ワードはいちいち線を引いてくるが、正しい文章のために書いているのではもちろんなく、もちろんそういうことも大事だけれど、道具の使い方は手にするものに委ねられるとしたものだ
たとえば小蠅が煩わしいとき、おれは新聞紙を丸めるか殺虫剤を持ち出すかする、少なくともそのために詩を書いたりはしない、そりゃまあ書いてるやつも見たことはあるけれど―それにはまったくどんな意味もありはしなかったよ
シャワーの後には食器を洗った、いまはピカピカになってふせられている、確かな仕事には確かな結果がある、時に視点を変えてみれば、そういったことはよく見えるものさ
ワンクリックでアルバムをチェンジする、音楽はとうとう円形ですらなくなろうとしている、だからおれは、飛び込んでくるみたいな声がある音楽が好きだ
あるシンガーが言ってた、「上手く歌うというのは吐き出すよりも飲み込むという感覚に近い」って、おれはその言葉が好きだよ、そこには確固たる柔軟さというようなものが感じられる
身体がなまってしまうからやっぱり少し外を歩こうか、それとも部屋でじっくりと動かすか…筋肉を損傷しない鍛え方というものを最近になってやっと覚えることが出来たんだ
いまはラナ・レーンが歌っている、彼女はサイコーさ、出てきて歌うだけで大体のことはオッケーなんだ、舞台の下で得意になって喋ったりしなくてもさ
また猫が鳴いている、今度はきちんと通るきれいな声で鳴いている、繁華街に程近い賑やかなこのあたりには、街路を走る学生の自転車と同じくらいの野良猫が多分居る、去年の夏に死んだ飼猫のことを思い出す、猫が死んで悲しい思いをすることはもうないだろう―ペット霊園の釜は一体分しかなかった、人間が行くところのように番号がついて並んでいる焼場じゃなかった、それを見るとおれは安心した、いつかおれが死ぬときもここで焼いて欲しいと思った、死んだ後まで誰かと並んで焼かれるなんて真平御免だ
頭の中には少し睡魔がある、でも横になると眠ることが出来ない、それが欠陥なのか仕様なのかはなんとも言えない、なんにせよ夜になれば何時間かは眠れるのだから―それほど気にかけるようなことじゃない―気にかけるようなことじゃない、そんなことばかりが毎日周辺でばら撒かれている、もちろんこちらにはそんな種をまともに拾う気なんかない
端末にメールが届く、どこかのサイトで登録したメールマガジンのようだ、もう何年も受け取っているけどまともに読んだことはない、きっと、なにかしらの目的のためにそのサイトにメールアドレスを教える必要があったのだ、そのとききりだったからパスワードを忘れてしまって、今でもそのサーバーは週に一度、俺の端末の着信音を鳴らす
斜陽は夕暮れへの準備を始める、いまおれは窓辺でこれを書いているから、日没と同時に冷えていく空気を存分に感じることになるだろう、休日というのは本当は、そんな景色を眺めるためにあるのかもしれない
ジョー・コッカーが居なくなって、ボビー・キースが居なくなって、ルー・リードが居なくなったこのところ、永遠なんてないんだと残された歌が話しかけてくる、また少しおれは新しい道具を試してみるだろう





自由詩 火曜日、あなぐらで気まぐれ Copyright ホロウ・シカエルボク 2015-01-13 16:00:33
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