温泉
葉leaf




サラリーマンの生活にストレスはつきものである。先輩の何気ない一言に威圧的なニュアンスを読み取って、傷ついた感情で脳がぐるぐる回ったり。上司の仕事についての厳しい叱責が腹の奥をつんざいたり。果ては隣の課の人の態度が最近冷たいなどと変に勘ぐってみたり。そのようにして、休日にもなると、自分の腹の中に一個の地獄が出来上がっていることに気付くこともある。疲労してとげとげしくなると同時に灼熱した胃の壁の上に、鬼どもがどしどしと闊歩する。胃はひたすら重たく熱を帯び、そこには針や炎や鬼どもによる混沌が出来上がり、それらは血液を通じて脳にまで至り心をかき乱す。

今日もまた胃の中に地獄が出来上がっていた。そこで私は天国に行こうとした。つまり温泉である。天国への道筋は遠い。自転車で大きな道路を渡って小道を通り、更には坂を下って橋を渡り、トンネルをくぐってようやく到達できる。私は運動によって荒くなった息と汗ばんだ体で温泉宿の門をくぐった。そしてすぐに湯場に行き、服を脱いで温泉に入った。だが、そこには天国どころか地獄が広がっていた。湯気が熱っぽいし、素性の知れない先客が何人もいるし、お湯に入ってみると結構熱い。あたかも自分の腹の中に広がっている地獄がここにも再現されているようではないか。

だが、しばらく熱い湯に浸かっていたら、その熱にはあらゆる意味合いがこもっていることに気付いた。特に、暴力や悪意や軽蔑や憎しみや敵意など、負の攻撃的なやいばが私の体にことごとく突き刺さってきた。この温泉はとんでもない地獄だった。ありとあらゆる方角から、ありとあらゆる負のやいばで私を切り裂こうとする。この悲惨な地獄の前では、私の生み出したひ弱な地獄など恐れをなして、鬼どもも何もかも萎縮して融け去ってしまった。温泉は天国などではなかった。とんでもない悪意に満ちた地獄である。だが、その厳しい地獄にさらされたからこそ、私から生まれた脆弱な地獄は一気に退散し、私の胃はただの人間の胃に戻り、頭脳は安定した。地獄を消し去るにはそれを上回る地獄が必要なのであり、温泉とは人間の生み出すどんな地獄よりもさらに厳しい地獄なのだった。毒を中和するためには、必ずそれよりも強い毒を必要とするのである。私は湯から上がって、一言、「いい湯だったな」と呟いた。とんでもない地獄をありがとう、と。


自由詩 温泉 Copyright 葉leaf 2015-01-12 16:31:56
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