埋めるために1.10
竜門勇気

朝の四時ごろ、おばあちゃんが眠れないといって
起きてきて気づいたのよと母が言った
首をさするとだらりとした感触がした
まるで濡れているようだった
溶けた泥のようだった
午前五時の空気がよそよそしい硬さで頭が回るのを妨げる
小さな体をくるんでいるボロ布に手を入れて腹を撫でてやった
途方もなく温かい
どこまでも温かい
足の付け根から黒く冷たい爪までまた丹念に撫でた

口の周りが水に濡れている
少し最期に吐いたみたい 母が口を開いた
透明な水を一口吐いて、彼は死んでしまった
何歳だったっけと呟いて 答えを待つ
彼を迎え入れた日の状況(例えば僕が中学生だったとか、引越しより前の事だったとか)
そんなことばかりでそれが何年のことだかはなかなか思い出せなかった
あ、と何かが脳裏に浮かび水呑み皿の受け皿を見ると
ショコラ・H7年・7月と書いてある
妹が書いたものだ
命名おじいちゃん、とも書いてある 
チョコと名づけたことを報告した時
祖父は「なるほど、ショコラか」と答えたので
我が家の当時の末っ子はモダンな名を受けたのだ
もうすぐ17歳だったんだね、長生きしてくれたね、と母に話しかけると
そうだね長生きだねと笑っていた

妹が仕事の昼休みに一度帰るという
だから、そして、僕は、穴を掘った
鍬とスコップで石だらけの庭を掘った
コートのフードを小さな雨つぶが音を立てて打つ
頭から雨粒が透けて穴に落ちる
いくどか鍬を石だらけの泥に叩きつけては
母が泥と石を掻きだす
雨粒が透ける 鍬が火花をこぼす 母が石を掻きだす
穴は深くなる
小さな体が納まるように 思い出が遠くへいかなくなるぐらいの虚しい深さに

かつて彼の寝床だった場所に かつて彼のものだった毛布でくるんだ彼が眠っている
かつて彼が好きだった出窓に いつもそこから外を見ていた 彼を出窓に


部屋は暖かすぎるので
氷を入れた袋を抱かせた
目やにの臭いと口臭がした
それに混じった確かな死臭を嗅いだ
寝ぼけてこちらを見るような目をしているその顔が遠くへいかないように
長い間冷たくなるばかりの腹をまた撫でていた
とても飽きそうになかった 永遠にこうしていたかった
優しい目で 彼は遠くを見ている かつて彼が飽きずに眺めていた出窓から 最期の世界を
優しい目で 彼は遠くを見ている かつて彼が飽きずに眺めていた出窓から 僕とお前の最期の世界を

濡れたタオルで体を拭いてやる
彼が生きている間に僕は
学校から逃げたり彼女が出来たりふられたり自分を殺そうと試みたりまた人を愛したりした
セミが夏以外に世界から消え失せてるわけじゃないように
確かにそこにいたのだ 少なくとも同じ星にいたのだ
濡れた鼻を振り回してわがままをいったり
僕が泣いていたら心配気に低く吠えたり
確かにそこにいたのだ
肛門から小指の先ほど糞が顔を出している
毎朝六時に彼は父に庭に放ってもらって糞をするのが日課だった

今日も本当は今頃庭木の根を嗅いで
小さな体で大きな糞をして
夕暮れまで出窓で揺れるゴールドクレストの枝を見たり
郵便配達に遠吠えを聞かせたり
咎めるような目で散歩をせがんだりしていたはずなのに
大好きな母の膝に頬を添えたり
父の帰りに喜びながら小便を漏らしたり
早朝の僕の帰りに静かに出迎えの声を上げたりしていたのに
こんな日が来るのは
こんな日が来るのは
明日でも良かったはずなのに

今僕はルイ・アームストロングの聖者の行進を聞きながら
こんなふうに格好つけた詩を書いて追いだそうとしている
送り出そうとしている 手をふろうとしている
キーボードはただのぼやけた線の塊になる
二重になってぐるぐる回ったりもする
心の中には彼はいる
けど それは彼じゃない
ごまかしてしまうよりは
ひとつぶ残らず悲しもうと誓う
目を閉じさせてやろうとまぶたを触ると
眼球が空気の抜けた風船のように柔らかくたわんだ
それでもその目はやさしく僕らを見ている
最期の世界を見ている

妹がやってくる
こんな雨粒がある庭に
彼を葬りたくなかった
でも時は来てしまった
抱き上げるとまだ背中は暖かかった
けどまるで何もくっつけられなかった接着剤みたいに
小さな体は硬くしぼんでいた
眼球はもう、何も見ていない
それがよくわかるほど乾いてしまった
何度も閉じようとしたけれど
まぶたは頑なに瞳を世界にさらすために持ち上がった
眠るよりもずっとたくさんこの景色を見ていたね
僕が大事に思う時間に
お前はこの景色を見ていたね
鋤の火花
妹の涙
母の泣き顔
父のとても寂しそうな横顔

僕は埋めたくはなかった
埋まるようなものじゃなかった
埋めて、埋まるような空白じゃなかった
土をかぶせる
花を添える
コートのフードを雨粒が叩く
不思議なことに
また雨粒は僕を通り抜けて
半身を土に隠した彼の身に降る
不穏で、あんまりに静かで
あんまりに普通の日すぎて
冗談みたいで笑えてくる
肩が揺れて腹が痙攣して
あんまりにも普通の日すぎて
せめて太陽のある日に
せめて春がくるまで
せめて彼が嫌いになるくらい
それだけの時間さえあれば
フードを叩く雨の音はしない
見る間に隠される彼の体にだけ
雨は降り続ける

かつて彼の寝床だった場所に かつて彼のものだった毛布でくるまった彼が笑っている
かつて彼が好きだった出窓に いつもそこから外を見ていた 彼が出窓に


自由詩 埋めるために1.10 Copyright 竜門勇気 2014-12-09 10:44:46
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