季節
葉leaf




季節という言葉が好きである。時間の移ろいを、例えば計画の進捗状況のように人間中心的に考えず、あくまで自然を中心に考えているからだ。人間は計画の達成に余念がないが、そのような人工的な時間の移ろいに、自然という不動の尺度から眺められた時間の移ろいが微妙に作用している。人工的で人間中心的な時間の移ろいを包み込むように、季節という自然中心的な移ろいは、たった一つしかない時間というものに構造を与えている。人間は計画を立てるにも季節を考慮せずにはいられないし、計画に従って働いている人間の心身に季節は沢山の贈り物を届けてくれる。事務所のデスクで交わされる気候の話、旬の食べ物の贈答、人々の人工的な時間にはいつだって季節の不動の移ろいが贈られているのだ。

自然の体系と人工の体系が交わるところに、人間の身体がある。人間の身体において、自然の体系は容器であると同時に湛えられた溶液であり、人工の体系は包装であると同時に降り注ぐ雨滴である。たった一つしかない時間というものは、自然と人工だけでなく、身体によってもまた構造化される。人間の身体は、うごめき、きらめき、ねじれ、吐き出し、受け入れ、様々な方角を向きながらも這うように移ろっていく。そして、人間の身体は疲労するし病気にもなる。

残業続きで自分の速度が社会の速度に追いつかなくなったとき、私は何の工夫もなく普通に風邪をひいた。喉と頭が痛くなり、発熱し、私は会社を休んだ。このとき、私の身体は、たった一つしかない時間というものに明確に足跡を残した。たった一つしかない時間というものに明確な周期を載せた。それは人工的な計画から雨滴を注がれることにより、自然の容器に湛えられた溶液が波立ち、その波が描いた一つの軌跡だった。風邪は身体の季節である。自然の季節のように不動でもなく、社会や自己の揺らめきにより伸縮自在に変化するが、それはやはり一つの季節なのである。風邪は人間中心的な計画のシステムの綻びたところに生い茂る自然の豊かなめぐりであり、自然と人工の両方の周期に影響を受けて作り出されるより高次の周期、高次の季節なのだ。風邪という移ろいを身体に宿しながら、人は今日も自然と社会と共に、たった一つしかない時間というものに自らの季節を証し立てるのだ。


自由詩 季節 Copyright 葉leaf 2014-11-02 09:17:19
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