旧人と呼ばないで
ドクダミ五十号
ネアンデルタール
ホモサピエンスと共通の祖先からのフォークか?
議論は絶えないが、少なくとも「人間」だったと思う。
膝を抱えた体勢での埋葬と献花。
暴力的では無いがゆえホモサピエンスに滅ぼされたとの学説が有る。
失われた接続は未だ見つからないが、この分岐と滅亡とを思う。
暴力的が我々の太古からの特性だと仮定する時、人間性とは何か?
そう云う不毛な考察に至るのです。
他者の死を悼む心より自己の豊かさを願い。安寧とは離れた贅を求めて。
恐ろしい進化が我々の果てではないかと危惧する。
故に特異とも取れる「人」が現れる。
私はその人々を「人」の進化の影に隠れた「優しさ」の具現者と呼ぶ。
さあ、想像してご覧なさい。死んだ仲間を埋葬する様を。
野から積んできた花を手向ける様を。恐らくは嗚咽をもらし涙する彼らを。
とある宗教を規範とする学者は、埋葬や献花を否定し
「倫理とは我らのもの」とネアンデルタールを自分達と遠い存在だとした。
どうだろう?素朴で純朴。倫理観の芽生えが我々ホモサピエンスより
早かったとしたら、彼等は優れていたと言えるのではないだろうか?
意図して同種を「喰らう」以外の目的で殺すのはホモサピエンスだけだ。
さて、野蛮人の定義を「人間性」や「倫理」に置くならば、滅びた種の
それの方が優れてはいないだろうか?
旧人と呼ばれる日が我々にも訪れるかもしれない。
差別によって混血は難しく、今後「フォーク」するならば滅びもあろう。
その時に「人」の本性が問われる。死と手向け。人間存在。
考える時間がどれほど有るか? 埋葬と献花と嘆き。もしも本当なら
ネアンデルタールは旧人と時間軸を基準にそうは呼べない。
馬鹿の戯言だが、私が「優しくなければ人間では無い」と自らに言うのは
連綿と続いて来た「人間」の進化と歴史の上で、大切なものは何か?
陳腐な観点だが考えてみても良いのではと思うのです。