邂逅
葉leaf




大学院を出て一般企業に就職したとき、世界の構成が全く変わってしまったかのようで、新しい世界はとても新鮮に私を打ちのめし、また楽しませた。何よりも、アカデミックな世界が間接性の世界であるとするならば、社会は直接性の世界だった。大学院で得た知識は直接誰かの役に立つわけでもないし、実際に社会に反映させていく上でも自らの基礎力を上げるという迂遠な道を通る。それに対して、会社で次から次へと獲得していくスキルや態度は、直接顧客に向けられるし、同僚に向けられるし、仕事に向けられる。社会とじかに接しているのである。それだけではない。大学院では人間関係もまた上下関係をあまり反映していないフラットなものだった。それに対して会社では上下関係、指示系統がはっきりしていて、意思伝達の組織形態が明確に出来上がっているので、上司の権力はじかに私を支配するのだった。大学院は理論でもってすべてに覆いをかけていた。それに対し、会社は人間をむき出しの裸に変え、世界からの光の直射にさらすのだった。

入社して初めの数か月、起こる出来事はすべて唐突で突発的なもののように思えた。あとになって合理的な仕組みが分かっても、私に与えられる時点では、仕事や指令は不条理や暴力のような様相を呈していた。そしてそれらは私の身体を直接動かすものだったのだ。いわば仕事や指令は私の身体に降ってくる不条理な暴力のように思われ、私はそれらを受け止めながら、あとからそれが決して不条理でも暴力でもないことを確認するのだった。だから、私は漠然と仕事をしているときも、いつなんどき誰かに突然殴られるかもしれない、いつなんどき誰かに突然怒鳴られるかもしれない、という恐怖を抱き続けた。私は社会と直接接しながらも、当の社会は全く霧に包まれた混沌でしかなかったので、社会は恐怖の限りない源泉だったのだ。

私はそこで何か大きな転換が起こったことに気付いた。それまで、恐怖というものは私の実存から発されるものであって、飽くまで私が恐怖の発信源なのであって、全て感情や意志は私が主体になっているはずだった。だが、会社において、もはや恐怖は社会が生み出すものであった。社会が人の集団に秩序を与え、しかもその秩序が人の理解を超えるまで複雑化したとき、社会は一個の不条理として人間の恐怖の源泉となる。人間は恐怖を減らすために社会を作ったはずが、当の社会によって新たに多数の恐怖を生み出されてしまった。恐怖はもはや私の実存が特権的に支配するものではない。人を超えた社会が今や恐怖の主体であり、そのようにして主体は私から社会へと大幅に譲渡された。私は主体としての特権を社会に大幅に奪われてしまったのだ。その奪略が、私と社会との真の邂逅だった。



自由詩 邂逅 Copyright 葉leaf 2014-09-14 04:53:04
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