空白の館
アラガイs


廻廊を二つもやり過ごすと以前の記憶は戻ってこなかった 。奥まった待合室には先着が何人か居て、そのうちの何人かは連れ添いの家族のようだ。しかし誰が患者で誰がそうでないのか、わたしには特に気にはならなかった。
どんな建物にも意味はあるのだろう。この新しく建てられた建物の壁が白いのは偶然ではない当然なことだ。
しばらくすると、すぐ脇の扉が開き中から医師らしき声が外に響き、出てきたのは前屈みに杖をついた老婆のように腰の大きく割れた白髪斑な中年の女性だった。わからないのは両脇から家族に支えられ歩いていく途中、その女性の眼が何処を見て通り過ぎたのかをわたしは見逃してしまったことだった。
待合室の斜め前にはリハビリ室と書かれた扉がある。わたしはしばらく待たされるらしいのでその様子をゆっくり観察することができた。そのほとんどが家族連れなのだが、待機していた男女幾人かの手足は肱や膝から左右に折れ曲がり、中でも言葉を発するときには必ず首が大きく斜め上に傾け、唇は上下に捻れてしまうという特徴的な共通する動作をわたしは発見していた。 しかしそのちぐはぐな動きでさえ、今のわたしにはコマ送り画像でも見るかのような沈着とした形象に写っては残像はすぐに消えていった。
ここは患者よりも事務服の姿が目立つ場所だ。一人めは何かを着た誰かが通り過ぎた。誰か二人めの後にわたしは名前を呼ばれた。時間は気にならなかった。
久しぶりに見知らぬ人を対面にして座ると緊張からか動機を強く感じるようになる。同時に全身から血の汗が沸き立ってくるのだ。
何を話しているのか何を話せばよいのか、何故ここに来たのかさえわからなくなる。 しばらくキーボードに指先を滑らせたままで、医師はようやく椅子の向きを変えると笑顔でこちらを正視した。
「はい、ではこれからわたしの言う3つの単語を覚えて置いてくださいね。「机」「時計」「鏡」。その前に今日は何年の何月何曜日ですか?あなたの誕生日は言えますか?
矢継ぎ早に質問攻めが始まったが、これはよくある挨拶のようなものだろう。このようなときには急に老け込んだ気分が逆に爽快にもなる。
「では、これと同じようにできますか?」
医師は親指を交差させながら鳩の象を真似て羽を作って見せた。

なかなか真似て直ぐにはできなかった。考えがまとまらなかったのだ。大体対面に座る相手と同じ形象(カタチ)になるようにするには相手の左手がわたしの左手でもあり、その左右親指の向きはどちらに向かっているのか、わたしは考えた。考えれば考えるほどあたまは混乱してしまった。
脈々と血の流れる音だけが発汗を誘発する。わたしは何をしているのか、何をすればよいのか、どうして初めて言葉を習う子供のように人前に恥をさらけ出さなければならないのか。そもそもこの形象に何の意味があると言うのだ。医師のその笑顔は何を指しているのだろうか、何を。焦って考えれば考えるほど指先から神経は遠退いていった。
「…ちょっと緊張してしいまして…」などと言い訳をしているうちに 「では、わたしの先ほど言った単語を3つ思い出して言ってみてください」 思わぬタイミングで突然聞かれた。

「机」「…」「鏡」 空洞の奥で迷い込んだようにひとつが出てこない。わからない。机、鏡、それらから導き出される関連が思い出せない。物事には何らかの関係性があるはずだ。しかし、呆然とわたしは考えたが思い出せなかった。
水槽の中焦れば焦るほど魚たちは酸素を吐き出し、思い出の歴史は宙を廻り出すのだ。
「2つは正解です。では答えは「時計」ですか?」確信が無い反面はっきりとはわからなかった。「いえ、違うと思います」「時計ではないのですね?」「では壁ですか?」 「壁ではないと思います」 これも否定した。「では、鉛筆ですか?」そうだ、どれもこれもが関連はないようで実は在るのだ。その関連を考えていた。「鉛筆では無いと思います…」そうだ、考えてみればそもそもこの3つを覚える気などわたしにははじめから無かったのかも知れない。
「 机、時計、鏡、」 この3つの事物を記憶の内に留めなければならないとすれば、それは今わたしがあなたの前で質問されているいう事実だけなのだ。
走ることを宿命付けられた競争馬は強要されその目的の為だけに夢中になれるのだろう。とうとう混乱して出てこなかった。「わからない…答えを、教えください」「答えは「机」「時計」「鏡」です。」
瞬間わたしの中で時間が停止してしまった。どうやら単純で無垢なこの質問の意味作用は壊れた神経回路の修復には間に合わなかったようだった。
白い建物の外へ出る頃には来たときの自分がまだそこに居る。タクシーに乗り込むと学校帰りの子供たちの姿が路地から現れては消えた。
何を話し何を聞いたのかをすっかり忘れていた。実は何年の何月何曜日かなんてあれ以来考えたこともないのだ。見慣れた道路を曲がり街の形状をもう一度振り返れば、事実応対した医師と事務員たちの笑顔だけは鮮明に覚えている。








自由詩 空白の館 Copyright アラガイs 2014-07-27 06:14:07
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