現場のへその緒(1)
Giton

場所をご存知ない方は、小岩井乳業の工場がある農場だと思ってください宮澤賢治は「詩」「詩人」という語を非常に嫌ったので、これらは禁句なのですが、ここでは便宜上使用します。例えば、天沢退二郎氏、入沢康夫氏らの議論を参照。
1 事実の記録は、詩たりうるのか?

現代詩フォーラムのみなさま、こんばんは。

詩を読むために、詩をよりよく理解するために現地調査をするなんて、伊達酔狂に思われるでしょうねw 酔狂て言えば、いま私は酔っておりますが…

純然たる写生で詩を書くことに対しては批判があります。プルースト「サントブーヴに反駁する」を参照するまでもなく。
しかし、そうやって、歩行しながらであれ、とどまって眺めつつであれ、そのような特異な方法で書かれてしまい、しかも高い評価が確定した詩が存在してしまったら、それを理解するために現地調査が有効な手段となることは、否定できないのではないでしょうか。
もちろん、そうした評価じたいを否定し無視するのは----現地調査を否定するには、そうするしかないでしょう----ご自由ですが。

さて、ここから本題に入ります。
たとえば(前現代詩ばかりで恐縮ですが‥この論は最後までそうなります)中也が“歩行詩作”していた・現在の井の頭線沿線を歩いてみても‥、まわりの風景も雰囲気もまるで変っているし、そもそも当時沿線にあったものが何か中也の詩の中に出てくるわけではありません。
中也の形象には----他の大部分の詩人の場合と同様に----普遍性があると言ってもいいかと思います。

しかし、↑これとは全く正反対の例があります。
その中也が愛読していた(古書店で大量に買い込んで友人に配っていたという逸話があります)『心象スケッチ 春と修羅』(以下、『春と修羅』といいますw)について言うと、この“詩集”は、どの収録作品も、それぞれ特定の時・場所と分かち難く結び付けられています。そして、作者自身が、これらの“詩”は、

「厳密に事実のとほりに記録したもの」

だと、岩波書店主(岩波茂雄氏)あての手紙で主張しているのです。

もちろん、中也は、『春と修羅』の作者が住んでいた岩手県に行ったことはありませんから、その場所を見なくとも読むのに支障がないことはまちがえありません。しかし、『春と修羅』の作品どれかをもとに論を立てるとなると、‥具体的に、作者が何を見て、こう言ったのか、何を見ないで言ったのか----ということが問題とならざるを得ないのです。

その中でも、とくに注意を引くのは全591行の長詩「小岩井農場」*1だと思います。岡澤敏男氏は、同農場の資料館長であった当時、農場に保管されていた1922年当時の記録を詳細に調べて『賢治歩行詩考』(http://www.michitani.com/books/ISBN4-89642-145-0.html)を書き、詩人*2が、この長詩の“スケッチ”を行なった過程を詳細に実証しました。

もちろん、詩を読むのは、歴史や個人の伝記を調べるのとは違うわけですから、こうした研究が、そのまま作品の鑑賞になるわけではありません。
「詩はあくまでもテキストによるべきであって、作者に関する知識は、どこまでも単なる注釈として扱われる。」ということは、1960年代以後は賢治研究の中でも強く提起されていて*3、それ自体は、私もまったく異論がありません。

しかし、こう言えばいいのでしょうか?‥「彼の場合には、“1922年5月21日の小岩井農場”という特定の時と場所自体が注釈なのだ」と。
このような特異な方法、“究極的には人類全てに理解可能な普遍的形象によって詩を作る”という他の詩人の実践とはまったく逆の方法を、この詩人は実践した、というほかはないのだと思います。

つまり、この作者は、特定の時と場所で見たこと、体験したことを、「厳密に事実のとほりに記録し」、自費出版したが、それは、“詩”として鑑賞にたえるものであって、今日に至るまで“詩”として鑑賞されている‥

もっとも、ここで若干の留保が必要です。まず、さきほどの岡澤敏男氏が農場側の記録(これは全く詩ではなく、農場員が生産業務のために記録していた日誌です)と、賢治の「小岩井農場」を照合した結果、彼は複数回(1922.5.7.,5.21.,etc.)の“詩作歩行”のスケッチ(晴れの日、雨の日、など)を、ひとつの日に起こった事柄としてまとめていることが、判明しました。つまり、「厳密に事実のとほり」ではなかったのです。

また、宮澤家で発見された下書類の対照によって、もとの原稿から出版までに、少なくとも3回の書き直しがあって、内容も大幅に変えられている部分が多いということが、明らかになっています(これは、天沢氏、入沢氏を中心とする探究結果)。つまり、「事実のとほりに記録したもの」ではないのです。

しかし、そうした留保をどれだけ付け加えても、“あの日あの場所で見たこと”の記録──メモをもとに詩が作られていること、いわば、そうした“現場のへその緒”をどこまでも引き摺っているということは、否定しようがないのです。。

抽象的に議論していてもしかたがないので、ここでちょっと例を挙げたいと思います:

「馬車のラツパがきこえてくれば
 ここが一ぺんにスヰツツルになる
 遠くでは鷹がそらを截つてゐるし
 からまつの芽はネクタイピンにほしいくらゐだし
 いま向ふの並樹をくらつと青く走つて行つたのは
 (騎手はわらひ)赤銅の人馬の徽章だ」
    (「小岩井農場・パート三」より)

語の意味に関して注釈が必要なのは、2行目の「スヰツツル」だけでしょう。これは Switzerland つまり、スイスのことです。
ほかには、難しい語はありませんが‥、どうでしょうか、これだけでイメージが湧くでしょうか?‥

((2)に続きます)


*1 場所をご存知ない方は、小岩井乳業の工場がある農場だと思ってください
*2 宮澤賢治は「詩」「詩人」という語を非常に嫌ったので、これらは禁句なのですが、ここでは便宜上使用します。
*3 例えば、天沢退二郎氏、入沢康夫氏らの議論を参照。



散文(批評随筆小説等) 現場のへその緒(1) Copyright Giton 2014-07-10 19:48:22
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宮沢賢治詩の分析と鑑賞