ミシェルウェルベック『素粒子』書評
yamadahifumi

 この本を読み終わった人間は必ずや、辛い苦い思いを味わう事だろう。作者のミシェルウェルベックは、まるで、現実の僕達の醜い部分を僕達に無理やり見せようとしているかのようだ。僕達はこの書物を読んだら、沈黙しなければならない。そして、現代人がいかに愚かで滑稽で、悲しく情けない生き物かという事を心底痛感するはめになる。『セカチュウ』で涙を流した人がこの書物を読んだら、どう感じるだろうか。多分、本当の書物ーーいや、本当の悲しみというのは僕らに涙すら許さない辛いものだという事を痛感するに違いない。まあ、セカチュウの読者はこの本を読まないだろうが。


 この書物は現代人の『悲惨と滑稽』を描いていると僕は言った。それを少しばかり説明する必要があるだろう。まず、主人公はミシェルという優秀な生物学者と、そしてブリュノという、通俗的な快楽主義者の兄弟二人である。そして兄のブリュノはただ、自分の性的快楽=幸福を求めて突っ走っていくのだが、彼はただ、幸福にも不幸になれずに、ただただ、女の尻を追いかける事しかできない、滑稽で悲惨な生き物である。彼は四十を越えて、『四十代の危機』に突入しつつある。四十代の危機とは、男が四十過ぎると、何かもう闇雲に、とにかく闇雲に若い女の尻を追いかけるようになる事を指す。そしてブリュノは自分の快楽の為に、ただもう突っ走っていくのだが、彼のこの冒険はことごとく悲惨で、滑稽で情けないものに終わる。なぜなら快楽というのは結局はあくまでも一時的な夢であり、覚めなければならない甘美な夢であり、そしてはっと目を覚ませば、すぐにこの人物は自分の滑稽さ、愚かさを自覚せねばならないからである。このブリュノの描写は、僕達にとても辛い経験を強いる。思えば僕達は『恋愛』などというものに過剰な価値を与えすぎていた。僕達は恋愛と性的快楽に、資本主義の強いる価値観とあいまって、これらに異様な価値を置き、そしてそこでこそ僕達は幸せになれると信じて走ってきた。そして、それは現代の唯物論と見事に合致している。『恋空』という恋愛小説があるそうだが、そういうものを考えると、僕らは恋愛を求めて動物的に突っ走り、そして彼氏ーー彼女がいるという事は一種のヒエラルキーのようになっているが、しかし、結局、恋愛は僕達に何も与えなかった。若いころは喜びにむせび、そして年を取れば、若者から疎外され、ただもう惨めな気持ちに陥る。この本の中に、「これまでの時代の中で、これほどまでに人が年齢というものを意識した時代はなかった」という文章があるが、この一行は僕達にものすごく辛い思いをさせる。僕達がこの本を読んで、辛い思いを感じないとしたら、正にその人間はこれからの人生で、一生をかけて、その辛い思いを味わわされる事になるだろう。真綿で首を絞められるように、ゆっくりと。そしてそれはほとんど避けがたい事なのだ。


 そして一方の、弟のミシェルは分子生物学者であり、彼はただ、学術の研究のみに自分の生涯を捧げた男である。だが、このミシェルもまた、ブリュノよりも幸福な人生を送ったという事も全然ない。彼は人を愛する能力に欠けていて、アナベルという本来生涯の伴侶になるような女性と運命的なめぐり合わせをするのだが、しかしミシェルの方に人を愛する能力が欠けている為に、ミシェルはアナベルを突き放す。そしてアナベルはミシェルの手から離れ、様々な男の元を巡るが、この男たちはどれも動物的な、獣的な人間ばかりで、アナベルもまた人生の悲惨さと滑稽さの中に突入していく事になる。アナベルに、「私はもう程度のいい家畜のように扱われる事には我慢ならないの」、というような台詞がある。これはまた辛い言葉だ。アナベルというのは恐ろしいくらいの美貌の持ち主であり、この社会では非常に輝いた存在であるのだが、実はそれは本人からすれば、(あるいは客観的に見れば)『程度のいい家畜』でしかないという事が明かされる。結局の所、僕達の中にある情欲ーーーないし、恋愛に関する観念にした所で、このアナベルの言葉以上のものを僕達が持っているとは言明しがたい。恋愛、結婚、幸福。だが、他人から幸福にされる事を望んでいる人間というのは、まるで、『一番程度のいい家畜』として扱われる事を望んでいるのではないのか。人間としてではなく。人として自立するつもりはなく、僕達はただもう、自分達を幸福にしてくれる誰かを探し求めている。そしてその幸福というのは、結局、金とか性とか、その程度の観念しかないのだ。僕達は昔に宗教を捨て去ったが、今僕たちにやってきた資本主義=唯物論の流れは、過去の宗教よりも優れていると本当に言う事はできるのだろうか。…そういう事はこれから、それぞれの人生を通じて僕達が試されるのだろう。おそらくは僕達の悲惨と滑稽を通じて。

 
 ミシェルとアナベルは、別れの後に、また再びーーー中年になって出会う事になる。(最初の出会いはまだ若い、学生時。)だが、その出会いも幸福で満ちたりたものとは言いがたい。ここでのウェルベックの描写法も、僕達を物凄く辛い気持ちにさせる。それに関しては本書を読んで確かめて欲しい。

 
 この書物はそんな風に、全編、人間に対する、あまりに皮相で、そして徹底的に冷たい(だがそれと共に愛に富んだ)描写で満ち溢れているのだが、しかし、ウェルベックがほんのわずかに、熱を上げて描いている重要な場面があるので、それを取り上げてこの書評を終わりにしたい。それはミシェルの祖母が死ぬ時の描写である。ウェルベックはこの箇所だけ、この祖母に対して熱意あふれる、真面目な描写をしている。このミシェルの祖母というのは実に凡庸な人物であり、育児放棄したミシェルの母親にかわってミシェルを愛し、そしてミシェルを育て上げたのだった。(ミシェルの母親も自由主義の元、自分が幸福になる事を求めて子供を捨てて、結局の所は不幸な人生に終わった。)この祖母は、おそらくフランスの古風な女性であり、短い青春時代の後、ただ生活の労苦にまみれて生活した人間だった。彼女は人生の中で懸命に働き、そして子供達をとにかくも育て上げた。この祖母の人生は正に周囲の為に捧げられたものだった。


 「(略)そして愛情。こうしたいっさいを、この女性は一生を通じてなしとげたのだ。人類についていくらかなりと網羅的に検証しようというのであれば、必ずやこの種の現象にも注意を向けなければならない。歴史上、こうした人間もまた確かに存在した。一生のあいだ、自分の身を捨てて愛情だけのために働きづめに働いた人たち。献身と愛の精神から、文字どおり他人にわが命を捧げ、それにもかかわらず自分を犠牲にしたとなどとも思わず、実際のところ献身と愛の精神ゆえに他人にわが命を捧げる以外の生き方を考えたこともない人たち。現実には、そうした人たちは女性であるのが普通だった。」


 言っておくが、この祖母というのは極めて凡庸な人物である。そして、この凡庸な祖母は病室で死ぬ。この祖母の人生は、だがしかし、懸命に周囲の為に捧げられたものだった。それは絶え間ない労苦と、他人の為に捧げられた瞬間の連続だった。だが、人は今や、このように凡庸だがーーーしかし、大切な人物を見捨てようとしている。ウェルベックはその事を告発しているように見える。実際、この小説の登場人物達はそれぞれが自分の事を考えているので、この祖母の死に対して、それほどの注意を払ってはいない。もちろん、そこには肉親に対する普通の悲しみはあるのだが、しかし、この祖母をこのように注視しているのは、ただ作家ウェルベック一人だけなのだ。ウェルベックはここで、僕達に向かって告発している。何故、僕達はこのような凡庸だがーーーしかし、同時に非凡で重要な人物を見捨てようとしているのか、と。ヨーロッパに様々な哲学があり、それこそヘーゲルの歴史哲学から、フーコーの構造主義的な歴史の見方まで様々な見方がある。現代はインテリ達の時代であり、彼らの優れた脳髄により、この現代は様々に切り裁かれる。そして、僕達個人は、各々が自分が幸福になる事しか考えていないので、このような人物に対して、ほとんど注意を払わない。このように、歴史の陰に隠れて、周囲に愛情を与えて生きた人物をほとんど見てもいない。僕達は自分が幸せになる事しか考えていない。今の『国家の為』などと言っているイデオロギスト達も結局は自分が幸せになれない事に憤って八つ当たりしているだけだ。だが、ウェルベックはこの人物に注目を向けさせる。何故、僕達はこの人物を忘れていたのだろう。何故だろうか?。…だが、その問いは長くは続かない。なぜなら、このような人物はあくまでも平凡な人物であり、僕達は自分が幸福になる為に運動する事に忙しいからだ。だが、僕達は幸福を過度に求めるという理由により、決して幸福になれずに、不幸に陥る。そしてその事をウェルベックはこの書物で冷酷に描いている。


 この書評は以上で終わる事にする。僕はこの書物を読んで、非常に辛い気持ちを味わわされた。そしてそれが真実であるだけに一層辛い。僕はこの書物を読んだ後、この作家の他の本も買おうと、アマゾンのページに飛んでいったが、しかし買うのは控えた。真実というのも、それが過度であると、あまりに辛いからだ。この書物の帯には「多量の毒 注意」とでも書いておいた方がいいかもしれない。そして、それよりもっと大切な事は、この書物の毒が全身に回らない人は、正にそれと同量かそれ以上の毒を、その人生そのものによって全身にくまなく輸液されるという事だ。そしてこの事は避けようがない。…この書物のクライマックスとは、かなり壮大な終わり方になっているが、これをどう取るかは人それぞれだろう。だが、それよりもこの書で語られた真実は二十一世紀初頭に生きる僕達にはあまりにも辛い事実だ。僕達がこの毒をどう取るかは人それぞれだが、しかし、この書から目を背けるというのが、もっとも簡単な方法だろう。だが、この書はそういう事を容易には許さない。人は辛い気持ちを味わいながら、本書を読み終えるだろう。そして読み終えた時、この世界がそれまでとはほんの少し違う色付けになっている事に気づくだろう。それはそれ以前より、少しばかりブルーがかっているかもしれない。そういう気がする。この毒を抜く方法はまだ世界のどこにも発見されていない。僕達は依然、『素粒子』の世界のただ中にいるのだ。そしてそれからどうやって抜け出ればいいのか、その方法はまだ誰にもわかっていない。


散文(批評随筆小説等) ミシェルウェルベック『素粒子』書評 Copyright yamadahifumi 2014-06-09 15:34:32
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