混迷錯雑した小説論
yamadahifumi



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 一般的には、小説の方が詩よりは読むのは簡単である。また、批評よりも小説を読む方が簡単だ。そして、出版量で考えても、詩や批評より小説の方が圧倒的に多いだろう。
 

 だが、書く側からすれば事情は異なる。僕は小説というのが言語芸術においては一番むずかしいと思っている。だが、先に言ったように、読む方においては、小説が一番楽だ。そしてこの関係というのが、おそらく僕達に対して様々な誤解を生んでいるように思う。少なくとも、僕にとってはそうだった。例えば、僕達は夏目漱石やドストエフスキーは普通に読む事ができる。それらは、文学の専門家だけが手にとるような本ではなく、もはや一般化された一つの古典である。だが実は、漱石やドストエフスキーは文芸理論的には一番難解で、なおかつ迂遠である。彼らに比べれば、アルチュール・ランボーの方がはるかに直接的でなおかつシンプルな形体である。だが、人が手に取るのは、漱石やドストエフスキーの方だ。


 この違いが何故出てくるのか、と考えてみよう。するとその答えは次のようなものになる。『作者の情熱、意志、感情、自己表出性、そういうものが『意味』として外部に現れるのに直接的に現れるのが詩であり、そして極めて間接的、迂遠に現れるのが小説である』。そして批評はその二つの中間的なものである。小説が僕らのお気に入りなのは、それが僕らの普段の生活の延長線で理解できるからである。僕らは隣に友人がいるように、小説の登場人物がいると考える事ができる。しかし、実際はそうではない。それは言語によって織りなされた一つの像なのである。そして一人の人間を言語の像を使って立体的に生み出すのは、実はとてもむずかしい事だ。それに比べると詩は、言葉の直接的な機能を使っている。詩において、言葉は像を織り成さなくてよい。

 
 例えば、次のような行がある。

 「痛みがなければ
  生命感覚に溢れた余白は生まれないのだろうか」

 これは田村隆一の詩の一節だが、見事な詩句だと僕は思う。ここでは、痛み=生命感覚に溢れた余白、という暗喩がそのまま詩人の心象の表出となっている。そしてこの詩は、戦争という痛みある時代を生き、そして『痛みなき』戦後の、その時代というものに疑問を抱いている詩人の人生そのものが凝縮されていると言っていい。ここで詩人は痛み=生命感覚に溢れた余白、というシンプルな暗喩を使っている。先に僕は詩における言葉は像を作らなくて良いと言ったが、ここでは小説とは違う像の使い方が現れているのだ。つまり、ここでは「痛み」という実在的なものと「生命感覚に溢れた余白」という抽象的なものとが二つに結び合わされている。そしてこの暗喩を理解しなければ、詩を理解した事にならない。そして、この言葉の使い方は独特である。普通、こういう言葉の使い方はしない。だが、これは気の利いた言葉の使い方、おしゃれな言葉の使い方ではなく、詩人が自身の心象を、直接、言葉そのものの体験によって示そうとする、そのような行為であると言える。…もっと言うと、小説においても、こういう比喩はあるのだが、それは登場人物による会話や地の文の中で使われる。そして文学そのものに理解力が乏しい人間は、この『詩的』である言葉の使い方を読み飛ばす。そしてこの詩性、ポエジーを読み飛ばしても、小説というものは成り立つので、この人間は小説をそのまま読んでいく。だが、詩的な表現というのは、言葉の表現の中核にあると言ってもよい。なぜなら、それは『言葉でしか出来ない』表現の中核にあるのだから。



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 自分で書いていても、結構あやふやで、自分の理論に自信が持てなくなってきた。おそらくは、小説ーー批評ーー詩の間にはっきりとした分け目を作るのは不可能なのだろう。それらは互いの中に入り込みながらも、しかもそれぞれに遠く離れている。まあ、今度は少し別の角度から考えてみよう。

 
 書き手からすれば、小説というものが一番難しい。僕達は漱石やドストエフスキーを普通に読むが、彼らが自分の確信ある作品に到達したのは四十歳過ぎてからである。彼らが自分に確信を抱いたのは四十過ぎてから。だが、彼らもそれまで別に遊んでいたわけではない。特に、ドストエフスキーなどはそのキャリアの初期より、明らかに晩期の方が読んでいて面白いと感じるだろう。だが彼は僕らを面白がらせる為に、四十年間地獄のような体験を積んだわけではないのだ。次にその事を考えてみよう。


 小説というものは普通には、登場人物が現れ、そして会話したり、行動したりする。「小説家になろう!」というサイトで人気のある小説を見ると、そこでは登場人物は極限まで単純化されている。そしてその言動も一元的であり、難解な部分は特にない。あの手の作品をどういう人が読んでいるのかはよく分からないが、多分、中学生ぐらいの世代が読んでいるのではないだろうか。そういう気がするが、どうだろうか
 
  
 「小説家になろう!」の「異世界迷宮で奴隷ハーレムを」もみたいな作品も小説だし、また「罪と罰」も小説である。どちらも小説だが、この二つは全く違う。当たり前の事だがこの二つは全然違う事実である。では、どう違うのだろうか。
 まず、それは小説が現そうとするテーマが根底的には違う。それは全然違う。そしてそれに伴い、登場人物の複雑さ、また文体の有無なども全く違う。そして文体のない作品の方が、一般的に読むのは簡単であり受け入れられやすい。だが、それらの小説が古典として残る事はおそらくはないだろう。何故かと言うと、簡単に言うと、ある一つの作品に表出された巨大な精神というの常に、複雑な登場人物の言動やその帰結、あるいはその特異な文体として表されるしかないからだ。だが、人がいつも巨大な精神を、その現れを求めているとは限らない。人が好むのは極めて簡素化された登場人物であり、またその単純な物語である。何故そういう事があるかと言うと、まあ単純に芸術というものへの理解力の不足に帰してもいいのだが、それだけでは足りない問題も含んでいる。それはつまり、生活している人間、現実に生きている人間というのは生きている内に、現実の人間の複雑さを常に感じている。そしてその事にうんざりした精神が、フィクションの中には単純で簡素な物語を好む。ネットで今溢れている単純なストーリー…例えば、様々な陰謀論や、日本が悪くなったのは〇〇が悪い…こういうものは正に、通俗小説のように流行っている。人々が好むのは人間の複雑さではなく、人間のシンプルさである。複雑なものを理解するには、こちらにも複雑な精神機構を必要とするが、しかしそれは人間にとって、あまり簡単な命題ではないらしい。そこで世界にはシンプルな物語が溢れる事になる。難解なもの、重たいものを厭う精神が、そのような物語を世界に表す事になる。しかし、それは単純さ故に世界の上をすべるように流れていく事となる。


 別の事を考えてみよう。君が小説を書くとして、君がある人間を書くとはどういう事か。君は、ある人間の言動を描く。君はその人間の姿形を描写する。だが、それは一体、どういう事だろうか。
 過去の自然主義文学においては、ある人間の言動やその容姿を描く事と、その人間の存在とが釣り合っていた。つまり、「人間の存在=人間の言動」という事だ。これはバランスある描写の仕方だったが、社会が高度に発展し、人間が観念化するにつれ、そういう事がはっきりとは言えなくなってきた。つまり、ある人間の生活している姿が、その人間の存在とイコールで結びつけるのが困難となってきた。何故かというと、その人間の自己意識というものが、社会の発展に合わせて肥大してきたからだ。そしてこの新しい社会に適応した描写を発明したのがドストエフスキーだった。(プルーストやジョイスも部分的にそう。)


 ドストエフスキーにおいては、彼の描く人間はそれまでの人物とは全く異なっている。例えば、「罪と罰」のラスコーリニコフがレストランに入って食事する場面を描くとしよう。だが、この時、ラスコーリニコフはすぐに、自分自身との問答を始めてしまう。そして、例えば作者は、ラスコーリニコフがレストランに入り、食事を頼む所までは通常に描くかもしれないが、すぐにラスコーリニコフ自身の自己意識、その肥大した意識の中での自分との応答が大きくなり、そしてそれによって通常の描写ーーーつまり、レストランとかウエイターと目の前の料理とか、そういう具体的なものが消えてしまう。そして、例えそういう具体的なものが捉えられるにしても、それはラスコーリニコフの自己意識を一度かいくぐったものとして僕達に明示されるのだ。だから、全てはラスコーリニコフという人間の自己意識の中をくぐって展開される。「罪と罰」のヒロインでソーニャという女性がいるが、この女性の存在というのは、実は『ラスコーリニコフの創作』である、と小林秀雄がうまい事言っている。つまり、ソーニャという人物は本来、そのような人物ではないのだが、ラスコーリニコフの存在が彼女を、あの作品の中の「ソーニャ」という人物へと変えてしまう。つまりこの場合、レストランの食事がラスコーリニコフの自意識をくぐって始めて意味があるのと同様に、ソーニャという人物もまた、ラスコーリニコフの自意識をくぐって始めて意味あるものであるという事だ。だが、問題はもっと広く展開される。つまり、「罪と罰」の中の世界そのものが、主人公ラスコーリニコフの自意識をくぐって始めて意味があるのだ、という風に。だから、これは全く新しい物語であり、前代未聞の文学作品であると共に、新しい、現代的な社会に適合した一つの特異な小説の描写方法なのだ。


 この方法に普遍性があるかどうかは他の作品を見てみればいい。例えば、サリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」。サリンジャーがドストエフスキーから直接影響を受けたとは考えにくいが、しかし、ここにドストエフスキー風の問題ーーつまり、自意識の問題ははっきりと現れている。「ライ麦畑でつかまえて」の世界が意味を持つのは、主人公のホールデン君の自意識を通しての事である。そこではどんな些細な事でも、彼の意識を通して意味が現れてくる。つまり逆に言えば、この世界のあらゆるものというものは、こうした自己意識を通さなければ意味がないものである。そしてこの事はおそらく、小説というものに重大な帰結を生む。


 小説というものは、誰でも書けると思われている節がある。言葉を知っていて、そして現実を知っていれば小説は書けるのだと。SFであろうと官能小説であろうとどのような作品も、こちらの脳髄一つで書けるような気がする。それは実際、そうかもしれない。今は皆、『小説の書き方』を知ってしまっている。だが、僕達がまず、生み出さなければならないのは、上記のように、世界に意味を与える為の一つの自意識ではないのか。僕は今、そういう風に考えている。もちろん、このやり方は絶対的な方法論ではないだろう。だが、例えば村上春樹の作品に意味があるのは、主人公の「僕」の現実に対する否定的意識のおかげなのではないか。そして、このような主人公の自己意識を作者が生み出すという行為は、小説というものを手先だけでこねくり回すだけの、そのような動作で生まれるのではない。この時、作者は現実の中に揉まれ、そしてその現実そのものを超越的に見下ろすそのような視点を自分の中に持たなければならない。なぜなら、この視点こそがその自意識の別名なのだから。現実を否定するには、現実を知らなければならない。もちろん、現実を肯定している作者というものを考えても差し支えない。いや、差し支えないように見える。だが、実際はそうではない。主人公の意識が周囲の現実から抜け出す為には、主人公の自己意識が周囲を一旦否定しなければならないからである。こうして、主人公の自己意識はまず最初にこの世界から切り離される事になる。彼は独自性を求める。よって、世界から離れる。だが、この主人公はやがて自分の独自性を悟り、そしてまたこの世界の中に戻っていくのかもしれない。そしてそれが、この世界のもっとも根本的な物語ーー悲劇ーー大小説ーーの主なプロットとなる。だがこのプロットは真似して得られるものではない。これは作者が現実と葛藤して始めて生まれる物語なのだから。だが今、「文学」というものは形式化してしまっているので、誰しもがこれに『似た』小説を書く事はできる。だが、本物と偽物は全く違う。それは月とすっぽんなどという比喩では言い切れないくらい、全然別物である。


 かなり錯綜した文学論になってしまったが、とりあえずここで筆を置く事にする。僕自身文学というものはまだ未知のものに留まっている。僕がこういう文学論を書くのは純粋に自分のためだが、それが他人のためになっていれば、幸いである。それでは。


散文(批評随筆小説等) 混迷錯雑した小説論 Copyright yamadahifumi 2014-06-05 20:12:02
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