世界最短の詩が何であるか、皆さんはご存知だろうか。
恐らく誰もご存知あるまい、と筆者は思料する。したがって、この文の最後にもういちど、皆さんに同じ質問を投げかけるので、以下の記述を読んだ上で、あらためて考えていただきたいと思う。
短詩といえば俳句だから、尾崎放哉のあの有名な俳句を思い出される方もおられるだろう。
そう、言うまでもなく、あの。
咳をしても一人 (尾崎放哉)
http://kajipon.sakura.ne.jp/kt/haka-topic42.html(放哉の句)
である。
また、その方面に詳しい方ならば、大橋裸木の名前を出されるかも知れない。
そう、言うまでもなく、あの。
陽へ病む(大橋裸木)
http://www.eonet.ne.jp/~meisenn/data/oohasiraboku.html(裸木の句)
である。
しかし、もっと詳しい方は、草野心平のあれだと主張されるに違いない。
そう。
冬眠 (草野心平)
●
である。
これについては、次の記事が面白い。/アンサイクロペディア冬眠 (草野心平)
http://ja.uncyclopedia.info/wiki/%E5%86%AC%E7%9C%A0_(%E8%8D%89%E9%87%8E%E5%BF%83%E5%B9%B3)
*リンク表示が変なのでURLコピペして下さい
記事によると、草野心平には、「生殖?」という詩があり、
ろ
る
の組み合わせを11個配した、蛙の後尾を表現した作品があったそうで、これはなかなか面白いと私は思うけれど、「る」のマル部分がメスの生殖器を表していて、「ろ」のハネ部分がオスの生殖器を表していたのだが、そもそも蛙には膣も陰茎も無いと指摘されて没になったという。
で、
春殖 (草野心平)
るるるるるるるるるるるるるるるるるるるる
という生殖活動により蛙の子どもが沢山できた様子を表すこの詩に直したそうだ。
この、「春殖」にしても、「冬眠」にしても、果たして詩であるのか、という議論を呼ぶもので、内外で議論があるという。《「冬眠」は詩とは認められない》 《むしろ絵画に近いと主張する者も少なくなかった。》というのだが、絵画の方は納得するのだろうか、という疑問が沸いてくるから、紛糾するのも無理は無いだろう。
<詩とは何なのか>という問題は無視できないし興味が尽きない。様々な立場や見解が林立するに違いないが、それらには、具体的な作品である草野心平の『冬眠』をみたとき、それが詩であるのかどうかを、みごとに裁断できるものであって欲しいと思う。しかし、その基準によって書かれたものだけが詩ではないだろう、とも私は思う。
詩の要件を網羅し画定することはできないが、今ふと思うのは、どこか愛される詩には<愛嬌がある>ということである。美人だけが魅力的なわけではない。上の「春殖」もまた、蛙の子どもはオタマジャクシだから成り立たないのではないか、と先の記事で指摘されていた。しかし、詩は科学論文ではないのだから、作品としての成立を否定されない限り、面白さや魅力のほうを優先してもよいだろう。
例えば、惜しくも先月亡くなった、愛される詩人まどみちおの作品に、
「やぎさんゆうびん」という愛されている有名な童謡詩がある。
http://www13.big.or.jp/~sparrow/MIDI-yagisanyubin.html(やぎさんゆうびん)
この作品では、そもそも、届いたら食べちゃうヤギが、手紙を出せるはずはない(つまり、自分で書こうとしたとき食べちゃうだろう)という疑問がぬぐえない。それなのに、この詩は、無限ループだというのだ。無限ループという発想は面白いけれど、しかし、これもまた、ループしてる内に、ヤギさんたちは満腹になる筈ではないだろうか。だからやがては、どちらからともなく読む時は来るのであって、無限にはループしない筈である。
しかし、だからと言ってそれでこの詩の魅力が無くなってしまうかと言うと、そんなことはないのだ。
ヤギさんのちょっと足りない感じがより愛らしく思える童謡詩の傑作であり、じつに<愛嬌がある>作品であることは揺るがない。「やぎさんゆうびん」は、作品としてはみごとに成立しているものだと私には思える。
それでは、『冬眠』は「世界最短の詩」なのであろうか。答えは否である。
先のアンサイクロペディア「冬眠 (草野心平) 」の記事の最後に、《「冬眠」がもたらしたもの》という一項があり、これまた興味深いので、ここでついでに引用してしまうと、
《まず意識を変えたのは出版社である。「●」ひとつで詩一篇の原稿料を
取られてはたまらないと、詩の数ではなく文字数によって原稿料を決める
ことになった(無論コピペの部分は文字数にカウントされない)。その結果、
洗練された短詩が激減し、かわりに長いだけで内容がない詩が氾濫すること
になってしまった。》
というわけで、これもまた、詩とは何か、詩人の志とは何かを考えさせられる逸話である。
気になるのは、原稿料の操作によって、以後はその反動から、「長いだけで内容がない詩が氾濫」したというのだけれど、「長いだけで内容がない」ものでも、「詩」と呼ばれていることだ。「詩」というのは、随分間口の広いもののようである。
したがって、「世界最短の詩」を考える場合にも、「詩」であるか否かについては、あまり問題にならないのかも知れない。問題は、「最短」という所だ。
ここで最初の質問に戻ろう。世界最短の詩が何であるか、これが、ここでの問題提起であった。それを皆さんはご存知だろうか、と私が冒頭で尋ねたのを思い出してほしい。
皆さんは、ご存知ない筈である。
この問題は、縷々論じた所で仕方ない。最短かどうかは、単純明快、文字数がきめる。そして、草野心平の詩は、どうやら記号1個=1文字カウントで、これまでは、世界最短なのであった。
ところが、それより短い詩を書いた詩人がいたのである。皆さんご存知ない詩人だ。
さらに驚くべきことに、実は、その世界最短の詩は、何を隠そう、この、現代詩フォーラムにあるのである。何と現代詩フォーラムは素晴らしいところなのだろう。
それが次に紹介する詩。世界最短の詩である。
「記憶喪失」 ハァモニィベル
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=288911&from=listdoc.php%3Fstart%3D0%26cat%3D1
記憶喪失は、自分の名前や、恋人すらも認知できないあの重症とは限らない。たとえば、はじめて人前でスピーチするという状況で、前日まで何度も何度も原稿を暗記したはずが、いざ、大勢の聴衆を目の前にして、さあ、と一斉に注目された瞬間、頭のなかが真っ白になってしまうといった、何かの拍子に起こるホワイトアウトもまた「記憶喪失」である。あの突然の状況、困惑を、字数を尽くした表現でいかに喚起したとて仮想にとどまるのではないだろうか。突然の喪失の不安感を、あるいは、あの、ピンチに墜ちた一瞬を、これほどダイレクトに喚起できる詩――しかも、ネット詩の特性を生かした――は、他にあるまい、と筆者は思うのである。
というわけで、ここに世界最短詩の作者であるハァモニィベル氏の栄誉を讃えて小論を終わりたいと思います。――この記録はおそらく破られることは無いであろうと筆者は思う(何せ文字数0の詩ですから)わけですが、異論のある方は、是非、<詩とは何か>をわたしに教えていただきたい、と切に(けっこう真剣に)お願い申し上げます。