北の亡者/Again 2014如月〜皐月
たま

 瞳


二月の白い雨の中
何もかもが凍りついた冬日
畦の匂いさへ凍りついたまま
も吉は冷たい闇の中で
いつもの道を見失ってしまった
今日はどうしても
まっすぐ歩けない

も吉を止めて
ガラス玉のような眼を覗き込む
どこへ失くしたのか
あの黒い瞳

なんとかしてもう一度
も吉の黒い瞳を取り戻したい
そんな切ない思いが胸を憑くが
白い雨の中で
蒼く凍りついたガラス玉はもう二度と
溶けることはない

もうあまりうれしいことは
残り少なくなってしまったけど
もうすこしがんばろう
も吉もわたしも
もうすこしだけがんばろうよ
時はますます早く
わたしを追い抜いてゆくけど
気にすることはないんだ 
ほら
北の亡者はいつも
わたしたちの背を見つめている

三月に入って黄砂と
春の雪が街をぐちゃぐちゃに汚して
ようやく春の音を聴いた
も吉はおむつをして
ストーブの入った部屋で眠る
穏やかに眼を閉じて
わたしの知らない夢を見ている



        (二〇〇一年作品)





 おしっこ


眠っていた田畑が
ひとの手を借りて 目を覚ます
田に水が入って 遅い田植えが始まった

も吉のお気に入りの空き地にも 水があふれて
出なくなったおしっこが さらに出なくなる
散歩の途中で ペタリと坐り込んで
骨の形になってしまった五体が 息をする

年老いてなお も吉はかわいい
痛めた両足に 妻の靴下を履いて
道往くひとがふり返る
滑稽な お爺さんになっていた

梅雨入りの頃から
も吉の身体が妙に温かいことに気付いていたが
もうすでに 季節は立ち止まっていた
めずらしく晴れた 休日の朝
も吉はもう 立つことができない
おしっこが溜まっているはずなのに
辛いと言って 鳴くことさえできなかった
おむつをつけたまま 一輪車に乗せて
いつもの公園へ連れてゆく

桜の木は きれいな若葉
も吉の腹に腕を回して 立たせてやる
さぁ おしっこしよう
誰も見ていないから
空っぽのブランコが 笑っているけど

やさしい光が 若葉にはねて
も吉の上にふりそそぐ
大地に横たわって その横顔は
元気な草の香りを 楽しんでいるみたいだ
しあわせな風景なのに
おまえの影だけが 足りなかった



        (二〇〇一年作品)



     ※


 わたしが現代詩に出会ったのは、たまたま歩いていた道で運よく、十円玉を拾ったようなものだった。もう、三十年も前のこと、所属していた山岳会の年に一度の総会があった建物のロビーの本棚で、偶然、詩の同人誌をみつけて家に持ち帰ったのだ。それで、詩だったら書けるかもしれない、と安易に考えたわたしは、迷うことなくその同人誌のグループに入会した。
 二十代に山登りを始めたのは、それまでのわたしの生き方を一八〇度変えてみたいという理由があったけれど、詩を書くということは、再び、一八〇度転換して、創作の世界に戻るということだった。ただ、そこはわたしが棲み慣れた絵の世界ではなく、ことばの世界だったから、右も左もわからない世界で一から出直すことになる。

 その同人誌は年四回の発行で、発行するたびに合評会というものがあった。いつも十名近い同人が集まって、互いの作品の評価をする。正直に言うと、そこはけっして居心地のいい場所ではなかった。悪意はないとはいえ、ほとんどの作品がこき下ろされた。それも手法だけではなく、詩を書く姿勢においてまで言及され、いつも口論は絶えず、悔しさを隠し切れずに泣いて帰る同人もいたし、それっきり退会してしまうひともいた。わたしの作品も毎回のように厳しい評価を受けたが、まったく未知の世界だったから反論すらできず、ただひたすら意見を聞き入れて、その後、時間をかけて反芻することで、なんとなく納得することができた。

 今回の「おしっこ」には忘れられない評価がある。その合評会の席で、三連目にある/年老いてなお、も吉はかわいい/という一行にある同人が反発した。つまり、かわいいとか、かなしいとか、死にたいとか、そういうことばは詩の世界では使うべきではない、というものだった。たしかにそれは言えているだろう。それらの感情を表現するための詩であって、それらのことばがなくても読み手に届かなければ、詩とは言えないかもしれない。
 しかし、わたしはその意見をどうしても受け入れることはできなかった。かわいい、というこのことばがなかったら「おしっこ」を書いたわたしに、意味が、なくなってしまうのだ。
 詩が詩であることを求める詩人の気持ちはよくわかる。けれど、ことばは語られるためにある。手垢にまみれた常套句は排除しても、心の根源を意味することばを排除すべきではない。わたしはそう思った。さらに、かわいい、にはそれ以外のことばでは到達することのできない、も吉とわたしの日々の暮らしが存在するのだという想いがあった。詩は読むのも書くのもむずかしいと言っても、むずかしくさせているのは他でもないその詩人なのだ。

 ふり返ってみれば三十年間、一度も休むことなく投稿し、合評会にも参加した。その数は一二〇回ということになるが、その一二〇回が意味するものをひと言で言うと「清濁を併せ呑む」ということになる。
 いいものも、わるいものも、その作品の作者を目の前にして合評すると、ふしぎなことに見えなかったものが見えてくる。その見えなかったもののなかに、作者のほんとうの想いが存在して、このわたしに詩の読み方を教えてくれたのだと思うことがある。詩を読む力と、詩を書く力は等しい、というわたしの持論はそうして生まれたものだけれど、そうなると、詩の評価は読者ではなく、自分自身に課せられるということになる。だから、詩のほんとうのむずかしさは、そこにあるべきものだと、わたしは確信したい。

 ところで、飽きもせず詩を書き続けることができた理由はすごく簡単だ。わたしと、詩の相性が、すごくよかったというだけ。それ以外には何ひとつない。ほんとうにそれだけ、それだけなのです。















自由詩 北の亡者/Again 2014如月〜皐月 Copyright たま 2014-02-27 08:12:22縦
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