【レビュー】雲雀料理11号の感想 4/4
mizu K

■ 清野雅巳さん『それが男や』http://hibariryouri.web.fc2.com/11/kiyono.htm

『雲雀料理11号』の幕引き。料理に満足したあとの熱いお茶のような一品。

週末の中華料理店でクダを巻かれる詩の語り手。どこか堀江敏幸あたりの小説の1場面に出てきそうだなあ、と思ったりした。そういえば、エビフライやエビ天のしっぽというのは、皿に残す人と、そのままバリバリ食べてしまう人とにわかれるように思う。魚の骨とかもそうだけど、こういう小道具というか皿に残っているものは、飲みの席などでは所在なさを紛らわすのにちょうどよかったりする。行儀は悪いけれども。

飲みやなどでぐうぜん隣りあったときにからんでくる〈オジさん〉というのは、どうしてもひとりでぺらぺら喋る傾向があるような気がする。たぶん〈オジさん〉自身が、ペラペラ喋りやすい相手を無意識に選んでいるのだろう。その喋りの半分はたしかに相手に語りかけているけれど、もう半分はひとりごとのようになって、酒がすすむと目がとろんとしてきて、だんだんろれつがまわらなくなり、話に繰り返しが多くなって、うんそうだ、うんそうだ、とひとり相づちを打ちだし、だんだん頭がこっくりこっくりしていって、しまいにはつっぷして寝てしまうこともある。

詩の語り手と、この〈オジさん〉はこのあとどうしたんだろうか。ひたすら飲み続けたか、まさか意気投合して話に花が咲いたか、尻すぼみになってなんとなくお開きになったか。それとも〈オジさん〉をつぶしてお代ももたせてバックレたか。すこし気になる(かもしれない)。



■ 縫ミチヨさん:冊子表紙絵

絵の前に立ち絵を見るとき人は絵の前にいる、ということはおそらくすべての人に共通していることなのだが(もしかするといないかもしれない。または絵の中にいるのかもしれない。それはさておき)、その鑑賞時におけるひとりひとりの視点はそれぞれ千差万別に異なっている。ある人は歴史的な視点からその絵の成立に思いをはせ、ある人は技法的な部分に着目する。またある人は絵のなかに描かれている細部を詳細に鑑賞し記憶に留めようとする。モチーフから意味を読みとろうとする人。絵よりも隣の恋人のことが気になって気になってしょうがない人。またある人は絵の具の匂いをかいだり。人によっては、たとえば美術館等の建物の空間そのものを楽しんでいる人もいるだろう。私の場合、美術的知識も審美眼もさっぱりなので、もっぱら絵の雰囲気や気配といったものをそれとなく感じてわかったふりをするくらいが精いっぱいなのだけれど。

雲雀料理11号の表紙をパッと見た印象は、なんだかよくわからないなあ、というものだった。絵は荒々しく昏く、明確には描かれていないので一瞬そこに何があるのかわからず、ややとまどう。版画だろうか?それから手がかりはないだろうかと、夕ぐれどきに光をうしなった藪のむこうの暗がりに目をこらすときのように、おそるおそる絵の中へわけいっていくことになる。

はじめ、画面中央やや左上に白い人物がいることをみとめた。像かもしれないが便宜上人物としよう。その人物は翼をもっているようにも見える。向きあうようにして人物の左側に黒い犬と思われる動物。右側にも見落としそうになったが、灰白の犬がいる(犬とは限らないけれど、とがった耳、ぱっちりと開かれた目、黒い鼻。四つ足であることは確かなようだ)。絵にはざわざわとした気配が満ちていて、風が強く、一定の方向ではなくかなりみだれて吹いている。

絵の上方にやや傾いで大きな建物のシルエットが浮かんでいる。尖塔らしき影。イスラムのモスクかビザンティン様式のドームに似たもの。それが全体的に傾いている。それは今日明日中にバッタリと倒れそうに傾斜しているのではなく、なにか海原で大きな波に揺られて傾いている巨大な船のようにも見える。あるいは見ている私が海におぼれかけていて、うねる波にもまれながら水面からようやく遠くの陸地に垣間見た、ある宮殿のシルエットのようにも想像できるのだ(残照を背景にして。あるいはその宮殿の物見に人影を認めることはできるだろうか?)。

それから絵の右側にある大きな針葉樹に目がいく。そこでもざわざわと風が吹き荒れ、木の頂きから半円を描くように絵の動きがある。木の右下の葉先、地面近く、いちばん下の枝の先のあたりに小さな人物あるいはぬいぐるみか人形のようなものがあるが、これは見まちがいかもしれない。

今度は左側に視線を転じてみよう。絵の左側の大半を占める部分には大きな風の流れがあり、それが冒頭の人物あるいは犬たちにむかって吹いており、それが私たちの視線を人物たちに自然と集中させる効果をあげている。もうすこし念入りに見ていくと、つぶつぶとしたものが無数に見てとれ、どうやら植物のようだ。稲または麦、あるいはそれに類する人の腰くらいまで高さのある植物が、ざざあぁっと風になびいている。宵闇に草木の湿った匂いが鼻にとどく。そして絵の右下から左上にむかって対角線上に横切る、未舗装の道、あるいは人の足で踏みかためられた道、あるいは雑草の生い茂る荒れた広場。そこを白い人物と黒い犬と灰白の犬はどうやら奥に向かって行く途中であるようだ。道の奥。絵の奥。そこには何があるのだろうか。シルエットが高く空に浮かんでいるあの大きな建物まで道はつながっているのだろうか。荒々しい不穏な風景のなかを彼らは行く。

けれども、彼らのおぼろげにうかがえる雰囲気や表情といったものからは、絵全体にただようような切迫した様子は伝わってこず、むしろどこか安楽としている印象をうけるのである。あるいはこの絵の場面は、道の奥、絵の向こうへ去りつつある彼らがふとふりかえって、それを見ている私たちにむかって、軽く別れの挨拶をしている。でも「また、ひょっこり帰ってきます」と言っている。そういう風にも見えるのだ。


散文(批評随筆小説等) 【レビュー】雲雀料理11号の感想 4/4 Copyright mizu K 2014-02-07 22:47:56
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