運河の夜
藤原絵理子


H:「もっと前に,きみに出会ってたらどうだっただろう,って考えてたんだ」
S:「もっとステキだったかも知れないし,もっとつまんなかったかも知れない」
H:「プラスマイナス…ゼロ…」
S:「そう.あのままニシンが獲れ続けたら,つまんない港町になってたかも…」

S:「けど,あたし,タラの話って好きだな.そうやって空想するだけでも楽しいじゃない」
H:「今の状況に限って言えば…」
S:「ん?」
H:「夕闇が周りの付属物を隠してくれてるし,なかなかムードもあるし…」

H:「きみには少々,役不足かもしれないけど,腕組んで歩くなんてのはどう?」
S:「あら.ずいぶんご謙遜ね.研究室で聞いたわよ,あなたのこと」
H:「その情報源は,どうせNのやつだろ.あいつ,やっかんでるんだよ」
S:「やっかむ,って,何を?」

H:「きみが,来るたびに僕を誘うからさ」
S:「え?あたしは,悪いなあなんて思いながら,つき合ってもらってるだけなんだけど」
H:「つき合ってもらえるんだったら,Nでもいいのかい?」
S:「そういう言い方は止めてよ…けど…」

H:「けど?」
S:「彼よりあなたの方が,お願いしやすいのは事実」
H:「ははは.言い方が駅向こうを迂回してる」
S:「しょうがないじゃない.踏切も地下道も跨線橋もないんだから…」

H:「はいはい.今夜も,不肖,私めが,ボディガード兼案内人兼…あとはなんだろ…」
S:「ねえねえ,あなた,ああいうの引っ張って走れる?重いのかしら,あれ」
H:「やれやれ,このお嬢さんは,どうやら僕に車夫までやって欲しいみたいだ」
S:「違うわよ.ちょっと訊いてみただけ」

H:「僕は高校時代にはバスケをやってたし,大学に入ってからは,こういう倉庫で大豆の荷役のバイトもやったし,俥は引けると思うよ」
S:「…」
H:「…どうしたの?」
S:「あなたって,ふざけてる時とマジな時の境が,よくわかんないわね」

H:「…いつもマジメなつもりなんだけど」
S:「あは,ごめんなさい.茶化すつもりじゃなかったのよ」
H:「ふむ.ちょえっと傷ついたぞ.しかし,演技とホンキの境目は,ときおり自分でもわからなくなってたりするかも…こわいぞおー」
S:「脅さないでよ.前にも言ったと思うけど,あなたとあたしはとりあえず…」

H:「とりあえず?」
S:「歩きましょ.こんなにキレイなんだから,もっと向こうまで行ってみたい」
H:「カメラ,持とうか?」
S:「あ,いい.だって,あなた,カメラを持ったら,あたしばっかり撮るじゃない」
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H:「下心.ばればれ」
S:「それに,あたし,写真って撮られるの好きじゃないのよ.自分じゃないみたいな感じで写ることが多いし」
H:「で,一生懸命,三脚担いで倉庫の夜景を撮ってる,と」
S:「そう.で,ホテルのロビーに,あなたが現われたときから思ってるんだけど,その傘は?」
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H:「雨が降れば,当たり前のように傘をさして濡れないようにする.少々面倒ではあるが,衣服が濡れるのは好きではないし,まして,カゼなんかひいたら,取り返しがつかない」
S:「取り返しがつかない…」
H:「そ」
S:「けど,今夜は雨は降りそうにない」
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H:「持って来るかどうか,ずいぶん迷ったけど,結局持って来たのは,きみのためを思ってのこと」
S:「あたしの?」
H:「もし,きみが運河にでも落ちたときに役立つかな,とかね」
S:「なーに,バカなこと言ってんの」
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H:「いや,意外と真実味あるかもしれないよ…何回か転んだんだろ?」
S:「それは,寒くて道路とか凍ってたからよ…あ,冬もキレイだろな,夜」
H:「昼間はダメでしたか?」
S:「ううん,昼間の雪景色もキレイだったわよ.積もった雪の上に,いろんな海鳥の足跡があったりして」
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S:「ガラス屋さんのベンチで,少しうとっとした時,不思議な夢を見たわ」
H:「ひょっとして,それ,僕がきみの恋人になってるみたいな…」
S:「違う違う,そんなんじゃなくて,もっと…なんていうのかなあ,懐かしいような,切ないような,そんな夢」
H:「なんだ.残念.きみの深層心理的分析をして…」
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S:「夜の闇はキレイなものだけ見せてくれるから好き.けど,漆黒の闇は嫌い.小さいともしびが,いとおしさをかき立ててくれる」
H:「きみはときおり,現実にいるのか,いないのか,その境目がはっきりしなくなる」
S:「あ,深層心理のことよ.分析してみて」
H:「原生林で迷っている.周りに大きなフキとクマザサと木しか見えないところで,きみは迷っている」
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H:「賢明なきみは,太陽の動きをちゃんと把握していて,方角は確実にわかっているけど,頭の中の地図が薄らいで消えかかっているんだ」
S:「あたしは,遭難するの?目的地への距離を間違って…」
H:「やがて,樹々の間にオレンジ色のか細い光を投げかけながら陽は沈む.おまけに,曇ってきた上空から,ぽつり,ぽつりと雨が」
S:「なんだか,ひどい話だわね」
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H:「周りはとうとう,漆黒の闇.霧のような雨が降っている.きみは大きなフキの葉っぱを傘代わりにさして,西,西,とつぶやきながら…」
S:「あたし,そんな暗いトコ,歩けないわよ」
H:「大丈夫.まもなくきみは,森の向こうに小さな明かりを見つけるんだ.ほら,ここの店みたいな」
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S:「真っ暗な森の中にそんな明かりを見つけたら,すごくうれしいだろうな…けど,ちょっと怪しい気もする」
H:「そ,怪しい.明かりは,木こりの住んでる山小屋から洩れてくる.外に人の気配を感じた木こりは,それがきみであることをちゃんと知ってる.で,言うんだ」
S:「ますます怪しい…」
H:「『ほら,やっぱり僕の言った通り,傘が必要になっただろ』,ってね」
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S:「なんだ,木こりはあなたなの?傘1本でずいぶん引っぱるわねえ」
H:「そう.で,きみは,『あなたの言うことを聞いておけばよかったわ』なんて言って…」
S:「なーんか,オナカ空いちゃった.ここでゴハン食べない?」
H:「あ,腰を折られた…まだ,肝心なきみの分析結果を述べないと」
S:「いいから,いいから.入りましょうよ」
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S:「少し風が出てきたわね」
H:「寒いのかい?」
S:「ううん.ちょうど良くて気持ちいい」
H:「ほてった頬を撫でていく海風.ここで,船の汽笛なんか鳴ったりすると,まさに,そのもの」
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S:「裕次郎さんのこと?さっきの店,ごひいきなのかしら,ずーっと彼の歌ばっかり流してたわね」
H:「知ってる曲あったかい?」
S:「2曲くらいあったかな」
H:「きみの横顔はステキだ…」
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S:「…?」
H:「そんな歌詞があっただろ,さっきやってた歌の中に」
S:「そうだっけ?」
H:「ああ,もう,このお姫様ときたら,わざといろんなツボをはずすのがうまいんだから,僕はただのタクシードライバーになってしまう」
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S:「もう,何言ってんの? 酔っぱらってる?」
H:「ところで,今,通り過ぎていったクルマの助手席,見なかったかい?」
S:「あたし,目が悪いから,暗くなると余計に見えなくなって…」
H:「ヒツジが乗ってたんだよ,右耳にピンクのリボンを付けて,やかましい牧羊犬から逃れてせいせいした,みたいな顔をして」
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S:「で,ドライバーは,顔の左半分がやさしい目をしたソリ犬で,右半分が凶暴な目をしたオオカミ,って具合かしら?」
H:「クルマが町から遠ざかるにつれて,だんだん左側も本性が.どっちにしても,腹を空かしたオオカミは見境なく…」
S:「あ,ラーメン,食べない? 食べようよ」
H:「は? それ,いいね,てか,またやられた」
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H:「タイムマシンって信じてる?」
S:「理論的にはありうると思うけど,観念的には信じたくないわ」
H:「きみが嫌なのは.過去,それとも未来?」
S:「どっちも.なんだか,心の中に砂漠ができちゃうような気がするのよ」
H:「ロマンチスト…」
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S:「あたしね,絵が描けたらステキだろな,って最近思うのよ」
H:「そろそろ写真は飽きてきた?」
S:「ううん,写真は別.あたしの目であって,そうでないもの.だけど,絵って,上手になると自分の目そのものになるかもしんない」
H:「僕の目は,比較的正確にきみの姿をとらえてると思う」
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S:「へーえ.あなた,絵が描けるの?」
H:「いや,絵は描けないけど,イメージだけは,はち切れんばかりに膨らませることが得意だ」
S:「いやねえ…そんなに見つめないでよ.まだ,酔いがさめないの?」
H:「きみといっしにいる限り,この酩酊から脱することはない…」
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S:「水面に映った光が揺らめいて,幻惑されるようなもの…風と波のいたずらね」
H:「いや,幻じゃない.きみの声を聞くことができるし,きみの香りを楽しむこともできてる.きみが許してくれるなら,きみの感触だって…」
S:「I still remember the ways that you touched me…知ってる?」
H:「僕は気まぐれな風じゃない」
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S:「明日,湖に連れてってくれない やさしいソリ犬さん」
H:「多少の不満は残るが,明日につながったということ…」
S:「深層心理の風景に出会えるかも知れない…」
H:「しかしやっぱり,帰りの電車の暗い窓を想像すると,それを眺めてる自分にうんざりする」
S:「あら.じゃ,あなたも泊まっていけばいいじゃない」


散文(批評随筆小説等) 運河の夜 Copyright 藤原絵理子 2014-02-05 22:05:29
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