詩を救うための音楽——榎本櫻湖『増殖する眼球にまたがって』
葉leaf

1.現代詩をめぐる状況

 現代詩の読者は減っている。団塊の世代のある詩人と話したとき、「私の若い頃は詩が若者たちの普通の話題に上がってきたが、いまはそんなことはないだろう。」と話していた。現代詩は、60年代、70年代の頃はまだ人口に膾炙していたが、時代と共に段々それを享受する人口が縮小していったのだ。また、私自身の見聞としても、ここ10年くらいで、詩の雑誌の取り扱いをやめた書店は多いし、詩のコーナーを大幅に縮小した書店も多い。それは、端的に、現代詩が限られた読者にしかその魅力を理解されなくなったからだろう。
 そこには、表面的な豊かさを追求するあまり、かえって真の豊かさを失いつつあるという現代社会の逆理が投影されているように思える。かつてアドルノが『不協和音』で音楽について指摘したように、現代の芸術は大衆化しており、瞬時に感覚され快楽をもたらすものばかりが安易かつ大量に消費されるようになった。大衆は、享受に際して深い教養や批評精神が要求されるものを忌避し、労働の間の余暇を心地よく過ごすために功利的な、つまり快楽の量が多いような作品を好んでいる。そして、大衆は、作品そのものの価値よりは、作品のまとっている価値の方に興味が向かい、作者や演奏者のアイドル性やネームバリュー、その作品がどんな賞をとっているかによって作品を選択するようになっている。さらには、作品を供給する出版社やレコード会社などの側でも、そのような大衆の志向に合わせることで商業主義の本質である利益追求の目標を満たし、または宣伝やイデオロギー操作によって大衆を供給側の都合の良いように管理していく。そのことによって、大衆は表面的には豊かになったかのように思える。余暇の時間を分かり易い作品の心地よさで満たし、疲労を回復してまた労働に向かう。だが、芸術作品の深い享受が失われていることは間違いがない。よく言われるように、作品は感覚のみによって捉えられるものではなく、知性や教養の裏付けがあって初めてその本来の在り方や深みを捉えることができるものである。簡単にわかりそうなものであっても、享受者の側にある体験の豊かさや芸術に関する洞察の深さによって、享受体験は単なる消費を超えた深みを獲得するのである。分かり易いものばかりを消費する大衆は、表面的な快楽を求めるあまり、作品の構造の把握や作品の置かれた背景の把握などによってもたらされる豊かな芸術体験ができなくなってしまっているのだ。
 だがそれだけではない。芸術の大衆化は、ある意味芸術における悪しき民主主義であり、それは少数者を抑圧し、社会の多様性を殺して行く方向に働いている。トクヴィルが大昔に指摘したように、民主主義は単に国民の声を政治に反映させる有効な制度であるだけではなく、多数派による専制を生み出し、社会を腐敗・混乱させる可能性を蔵したものである。今や詩を書く人間は、自ら詩を書いていることを「カミングアウト」することすら困難な状況である。詩を書いているというだけで何か内向的で気味の悪い存在だと受け止められ、一般社会において詩を書くこと自体が抑圧されている雰囲気がある。だが、それは社会の均質化圧力の横暴であり、均質化した社会からは生産的な発展は奪われてしまう。歴史の発展は、社会の不均質さ・多様性に基づく諸力の運動によってもたらされてきたのであり、社会の多様性の喪失は社会全体の豊かさの喪失に他ならないのだ。
 現代詩は、言語芸術の分野において、常に自らを他の言語形式から異質たらんとして、常に自らを更新していく分野である。「現代詩」の定義など論者の数ほどあるだろうが、ひとまず私は、現代詩の成立を、その抒情の質の多様性が確保されることによって段階的になされたものだと考える。それは、旧来の日本の詩歌にあったような、はかなさ・弱さ・甘美さ・単純さへの志向から、永続性・攻撃性・粗野さ・複雑さへの志向への転換だと大まかには見ることができる。具体的な名前を挙げるなら、恐怖を重要なモチーフとした田村隆一・黒田喜夫・粕谷栄市など、性や暴力を重要なモチーフとした鈴木志郎康・吉増剛造など、不条理を前面から取り扱った天沢退二郎・吉岡実など、観念や思想や論理による抒情を展開していった谷川俊太郎・岩成達也など、社会性を積極的に取り込んでいった谷川雁・吉野弘などにより「現代詩」は段階的に形成されていったのである。抒情は、とっくの昔に、花鳥風月の甘美な快楽を歌うものではなくなっている。抒情は、人間の根源から沸き立つあらゆる情念の奔出であり、また思想や哲学・論理などのもたらす知的な美の追求でもあり、社会の中で社会を内面化しながら生きる人間の歌でもある。抒情のこのような多様性と不均質性が現代詩の特色をなしていると私は考える。
 だから、現代詩は必ずしも心地よいものではないし、必ずしも容易に理解されるものでもない。大衆の安易な消費に抵抗するのが現代詩であり、それゆえに大衆社会からは抑圧され疎外されているのである。だが、流行歌の歌詞や小説に飽き足らず、現代詩にそれらとは異質な衝撃力を見て取って、現代詩に魅せられていく若い世代もまた少なからずいるのである。大切なことは、現代詩がそのような異質な衝撃力を保ち続けること、そして、現代詩が安易に消費されないだけの内的な構造と強度を保ち続けることにより、社会の多様性と不均質性を保ち続け、社会を活性化することだと思われる。

2.榎本櫻湖『増殖する眼球にまたがって』

……蠢動と顫動のさなかに滴る蜜月の、海洋へととめどなく流れゆく吐血による櫛水母の残骸を集め、瀕死の刺胞生物から他の刺胞生物へと伝達される、ありうべき脱臼、帯状に引き延ばされていく虚ろな風浪は、剝落する樹皮の内側でどよめく樹脂に絡めとられた華やかな石化しゆく糸、波濤から波濤へ伝播する、分泌の論旨に、〈つまり陰茎は覚束ない花器として一輪のカーネーションを挿されて佇んでいる〉のであり、並ぶ死滅の瓦解に畏怖の亀裂を目撃し、抉られた鼠蹊部の暗澹と落ち窪む猶予をひときわ勤しむ……
       (「陰茎するアイデンティファイ あらゆる文字のための一幕のパントマイム」)

 さて、「詩の強度」というものを考える。これもまた論者によって諸説あるだろう。私は詩の強度というものを、どれだけ強度のある理論によって支えられるか、によって測ろうと思う。先述したように、詩は単に感覚されるだけではなく、何らかの知的な営みと共に享受されるときに、より豊かに受容されるのである。その詩がどれだけ強靭な知的な営みを触発し、どれだけ強靭な理論によって解釈され、その解釈によってどれだけ豊かに受容されうるか、というところに詩の強度の在り処を求めようと思う。そして、そのような強度のある詩の豊かな受容によって、言語芸術の中でも異質なものであるべき現代詩は、その威力を増し、異質な衝撃力や言語表現の多様性を世に定着させるのである。
 さらに、「詩の強度」には、その詩がどれだけ内面的な力に推進されているか、というのも付け加えることにしよう。というのも、いくら理論により深く解釈される詩であっても、単なる様式の模倣だけでは老化していくだけだからである。詩には静的な強度だけでなく動的な強度も必要である。詩の動的な強度として、それがどれだけの「若々しさ」「前衛精神」「内的必然性」によって駆動されているかも考慮することにしよう。
 さて、ここで榎本櫻湖の詩集『増殖する眼球にまたがって』(思潮社)を採り上げる。先の引用は同詩集からのものである。榎本の詩は現代音楽という巨大な理論体系による解釈を触発するという意味で、強度のあるものであり、また、通常の言語に対する異質性も際立っており、さらには榎本の内的な推進力を強く感じさせるものである。
 言葉というものは音楽の一種である、というと驚かれるだろうか。だがあえて「言葉は音楽の一種」と断言しておこう。音楽史的に言えば、古代ギリシアにおいて「ムシケー」と呼ばれたものは、音楽的に規定された韻文であり、そこでは音楽と詩が一体となっていた。T.G.ゲオルギアーデス『音楽と言語』の一節を引こう。

 このようにギリシャ語の語句はそれぞれに固定した実体的な音を備えており、それぞれに固有の音楽的意志をもっていた。個々のシラブルは、伸ばすことも縮めることもできない固有の長短をもっていた。これを語る人にとってこれらのシラブルは、必然的に柔軟さを欠いた固体のように感じられた。古代ギリシャ語の有するこのような固体的対象的な性質、これが他の西洋の言語にはみられないギリシャ語固有の音楽的リズムにほかならなかった。

 このムシケーから音楽的要素を取り去ったものが散文となり、散文的要素を取り去ったものが音楽になった、というのが分かり易い解説である。だが、言葉はついに音楽的であることをやめなかったのではないだろうか。言葉は声として発されるとき、必ず何らかの音色を持ち、何らかの抑揚を持ち、何らかのリズムを持つ。それは標準的な記譜にはなじまないものかもしれないが、声として発された言葉は、それがギリシャ語であれ日本語であれ、そのような音楽的要素を備えるのである。そして、これは言葉が文字で書かれたときも同様である。純粋な黙読というものは想定しがたく、声を発さずに言葉を読んでいるときでも、人間の頭にはその言葉の音声がうっすらと再生されているものである。黙読していても、人間はその言葉の音楽を感じ取ることができる。
 だとすると、言葉から離れた音楽というものはいかにして存在しているのだろうか。言葉は、それが読まれるときでも音韻的な在り方をしている。その音韻を超えたところに詩の音楽の在り処はあるのではないだろうか。実際、器楽曲においては言葉とは次元を異にした音楽が奏でられているのであり、器楽曲の体系は言葉の意味とは別の意味を生み出している。それは、言語的なメッセージには回収されない音楽独自の印象であり、ある種の内容を伴った装飾である。
 さて、上掲した榎本の詩を読んでみよう。この詩には言葉に伴う音韻的な意味での音楽はもちろん備わっている。だがそれに加えて、メッセージを超えた、それでありながら何らかの内容を伴った装飾が加えられていないだろうか。それは言語の通常の意味を超えた異質な意味であり、音楽の意味に類するものである。「蠢動と顫動のさなかに滴る蜜月」と書かれたとき、そこには言葉の通常の意味を超えた意味が発生している。それは、滑らかな意味や論理やイメージの水平的な連続に、垂直的に刻まれた断裂である。通常の言葉が線条的であるとするならば、榎本の詩はそこから垂直に切り立つような新たな次元を加えている。それは、言葉の連続を切断したり、言葉のイメージ同士を衝突させることで生じる言葉の新たな意味である。「蠢動」とは何の蠢動であるのか。「顫動」とは何の顫動であるのか。それが分からないので、その「さなか」が何を指すのか分からない。このように榎本の詩にはあるべきところにあるべきものが明確に欠けている。反対に、「滴る蜜月」に関して言うならば、期間を表す「蜜月」が「滴る」運動をすることにされており、異なるカテゴリーが無理やり連結させられた時の衝突が鮮やかに見て取れる。つまり、榎本の詩には、あるべきものが欠けたり、異なる論理的範疇にあるもの同士が無理に衝突させられたりしていて、通常の言葉のもたらす意味とは何か異質な新しい意味が生み出されていると言わざるを得ない。
 もう少し丁寧に引用部を読んでいこうか。そこには、「カーネーション」という俗に美しい言葉から、「刺胞生物」という専門用語、「陰茎」という性的な言葉、「畏怖」という俗には美しくない言葉、と本来だったらそれぞれ異なった種類のテクストに整合的におさめられているはずの語彙たちが一つのテクストの中に集中し互いに腕を組みながらにらみを利かせている。「カーネーション」だったら本来はちょっとした美しい小話に出てくる言葉かもしれない。「刺胞生物」だったら本来は学術論文に出てくる言葉かもしれない。「陰茎」だったら本来は医学的なテクストに出てくる言葉かもしれない。「畏怖」だったら本来は暗澹とした告白に出てくる言葉かもしれない。そのような言葉のまとっているある種の「調性」を剥奪するということ。榎本の詩が「無調」であるのは、そのように、あらゆる領域から言葉を文脈から引きはがして持ってくるところに由来する。そこには当然、通常のテクストによっては実現されない分裂や衝突が生じ、それが榎本のテクストに通常の言葉の意味とは異なる音楽的な意味を付与するのである。「音楽的な意味」とは、言葉の通常のメッセージ的一貫性に垂直に切り立つ言葉の新たな意味であり、歌に対して伴奏が言葉以上の意味を付与するように、詩がその構文や語彙の選択を工夫することで獲得する言葉以上の意味である。連続的で一貫したメッセージ的な意味を超えた意味を詩が発するとき、それを「音楽的な意味」と呼ぶことにする。

 あらゆる家具のうちから任意のものを好きなだけ用意して、考えつく限りの音を、たとえば叩いたり擦ったりするのは当然のこととして、抽斗を開け閉めする音、なにか道具を使って、金具の部分をコントラバスの弓などで擦奏したり、撥やマレット、家具同士をぶつけあうのもよいかもしれない。とにかく、思いつく限りの音を、鳴らしてみるべきなのだ。ただしきをつけなあければならないのは、それが単純な整数で割り切れるような拍節感をおびてはならない、ということ。つねに衝動的で、まるで痙攣の発作を起こしてしまったかのような音をたてることに徹し、あまりにも退屈そうな風情で、しばしば聴くものを不快にさせるものでなければならない。
       (「《家具の音楽》 いくつかの家具と複数の人の声のための」)

 さて、ここで榎本は自らの詩作法を語っているわけだが、言葉に関することは一切書かれていない。もっぱら音に関することが書かれているわけであり、引用部に続く本編はもちろん詩なのだが、その詩によって音楽を実現しようとしている意志があるのは明確であろう。ここで語られている「奏法」は、普通の音楽の奏法ではなく、とにかくあらゆるノイズを狂ったように作り出せ、と言っているのである。本編では、例えば「母音の印象を耳から紡ぎだす営みに意思を失して従事すること、その足枷を労いながら神経症的なまでの震えを妄りにマリオネットの膨らんだ恥丘に貼りつけること、その二つは果たして銀鍍金を施されて今にも破裂しそうなほどです」などの詩句が展開される。これは「音楽として」読まれるべきであり、要するに、通常の線条的なメッセージ的言明を超えたような意味の戯れを「聴く」必要があるのだ。
 さて、このようにして、榎本の詩は決して感覚的に快いものではない。ノイズを作り出す「奏法」からも分かるように、既存の感覚的に快い形式では表現できないものを表現しようとしていることが分かる。だが、再度言うように、作品とは感覚だけで判断されるべきものではない。そのコンセプチュアルな意味合いであるとか、その置かれた文脈との関わり合いであるとか、その構造の理論的解釈であるとか、その根源にあるものと鑑賞者の体験との照らし合いであるとか、そういうものをひっくるめて、その芸術的価値は図られねばならない。
 そこで、先ほど述べた詩の静的な強度と動的な強度について考えたうえで、現代社会において意味のある作品であるかどうか考慮してみよう。まず、静的な強度について。榎本の詩は、通常の言語の意味を超えた音楽的な意味を作り出すことに成功し、そのような理論的解釈を強く触発するという意味で、静的な強度を備えていることは十分わかったのではないだろうか。では動的な強度はどうだろう。榎本の詩は決してダダやシュルレアリスムの様式的模倣ではない。彼女が自らの詩に音楽的な様式を付与しているのは、何よりも自らの不条理な衝動や疎外意識などを叫びたてるためである。彼女がその詩作法においてノイズを狂ったように奏でることを意図していることからも分かるように、安穏で幸福で居心地の良いものなど破棄しているのだ。その居心地の悪さや危機意識を叫びたてる媒体として、音楽的な詩編が必然的に要求されたのである。つまり、榎本の詩には内的推進力が伴っており、動的な強度も備えていると言えよう。そして、榎本の詩は、自動筆記的な様式に音楽的美を加え、さらにその音楽的美は現代音楽的な美であったという意味で新しく異質なのである。そのような異質で強度のある作品は、社会の多様性を増し、社会の均質化圧力に抵抗し、芸術の大衆化を防ぐ役割を果たすという意味で、現代社会の役に立っていると言えよう。

3.大衆化の先へ

 さて、ここまで、「芸術の大衆化」を前提に話を進めてきたのであるが、現代の芸術はそれよりもさらに先に進んでいるのではないだろうか。インターネットの普及は、マイナーな趣味を持つ者同士が情報を共有するプラットホームを作り上げた。いくらマイナーで昔だったら同朋を見つけるのが難しく人口がスパイラル的に減っていく運命にあったような趣味でも、簡単に仲間を見つけることができて、その趣味を放棄しなくても済むようになっている。現代詩もまたその恩恵にあずかっていて、すぐれた詩人たちが地域を超えて瞬時にやり取りができるようになっているし、それによって交流、新たな活動の立ち上げが容易になっている。榎本櫻湖の詩は大衆社会に抵抗するものであったが、このような小さな島同士が緩やかに連結するようになった社会に対してどのように反応していくのか、それが楽しみであるし、それは何も彼女の作品に限らず、現代詩自体の今後の運動の課題でもあるだろう。



散文(批評随筆小説等) 詩を救うための音楽——榎本櫻湖『増殖する眼球にまたがって』 Copyright 葉leaf 2013-12-21 15:04:25
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