僕の過去のことだとか
番田 

何かに追い立てられるように、死のようなものを感じながら詩を書いていた。何の意味があるのだろう、それ自体がそこにないことに。けれど何が確かなものとしてあるのだろう。原宿の中を歩き回っている。高校生の頃、田舎者だった僕もここに来てバッグを買ったことがある。そこには、安いものもあれば、高いものも売られていた。五千円のアバハウスのバッグを僕は買った。だが、今ではそれはそれほどそれは高くもない買い物だろう。しかしたぶん、僕にとってそれは高い買い物だったのかもしれない。僕はとても、学校にそれを持って行くとよく目立った。今、どんな格好がはやっているのだろう。しかし、街を歩いてもよくわからない。なんとなくだが、街を行く人を見ているとそれがわかるようにも思える。すれ違う人の声や言葉、過ぎていくものについてを考えている。ルーズソックスをはいている人を今日は階段で見かけた。その多くがネットに負けている、雑誌の特集記事。街は雑誌の記事よりも流行に敏感なのだ。生である声の方が、いつもリアリティを持って自分に対して響く。


僕はそんなことを考えながら、コミュニケーションの重要性をいつも意識する。それは、木や水や、川でも良いのかもしれない。そんなものを、社会に出ると失ってしまう。ネットの情報を手に入れたくなる。いつも、ネット社会の中では、自分のことを見失いがちなものだ。僕はわがままな生き物だと、人間に対していつも感じ、ふと、家へ帰りたいと季節の変わり目に思う。だが街はもの凄い数の人の波であるように思う。それにしても、自分のことは、何をしていても見失いがちだ。僕は、街のどこに向かって時の中を歩いていくだろうかと思う。帰る故郷も、行く先に残っているようには思えない。そして、駅前に溢れる人の波。今後僕は、日本の社会はルンペンのような人が増えると予想している。生きることに何の意味がある。アイフォンで情報をやりとりしている子供たち。刻一刻と現れては消えていく店の名前。そしてそんなことを考えている通り。むしろ、消滅えていくことがわかっているとでもいうように。



散文(批評随筆小説等) 僕の過去のことだとか Copyright 番田  2013-11-04 20:03:32
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