詩人
葉leaf


もっとも善意に満ちた人々から、月光が射してくるように「詩人」と呼ばれ、もっとも無関心な人々から、どうでもいい荷物を落とすように「詩人」と呼ばれる。だが「詩人」という自称は北を向いた決意だったり南を向いた諦念だったりして、「詩人」を自称することで失われる、何者でもないことの自由、一筋の傷すらない空虚、内側から栄える罪がある。そうして僕は今日も社会の曲がった時間の峰から滑り落ちそうになりながら、「詩人」であることをやめ続けている。僕は、一輪の草の花が美しく咲いてしまったかのように孤独だった。道端の空間に矛盾にも似た裂け目を入れ、誰もいない夜にも美しさを振りまき、少しずつ生長するけれども終局点は見えず、日光をすべて受け取ることができなかった。このような欠落が輪を広げ輪を重ねていく中で、欠落は木々を揺らす風のように動いていき、右腕と左腕の間の体がそっくり欠落であり、この欠落のめぐり全体こそが僕の孤独だった。詩と孤独とは競合する等しい損傷であり、詩が孤独に追いつくと次は孤独が詩に追いつき、互いに太陽と大地とを奪い合った。詩は何よりも純粋な否定の機械だった。人間の営みが制度として流れ着いたこの岸辺で、延々と継ぎ足されてきた水の戯れを蒸発させた。夏草のように勢いよく伸びていく若者たちが、同じ季節のよしみで振り撒く花粉を核内から破壊した。絶え間ない人々の実践の細い描線が積み重なり、太い輪郭として醸成された道徳を真っ黒く塗りつぶした。欠落という巨大な茸は飽くことなく地下を開拓し、夥しい言葉の胞子をもとにして否定という高級茸を大量生産した。欠落は生殖のために否定を生み出さないではいられなかったのである。そうして僕は、自然から、人から、社会から、それぞれの音色で伝わってくる愛をきれいに遮音して、破壊された自分がもっと破壊されていくように、自然と人と社会の丹念なまとわりつきを破壊しつくした。自由だ! 欠落の中に引きこもる自由! 否定の快楽に酔いしれる自由! そして、無量の寂しさに苦しむ自由! しかしこの自由は、つまりは重力に逆らって空中浮遊している人間が錯覚する自由に過ぎず、人間としての、そして人生を渡っていく存在として負うべき重力が、自然法則の単純さと明快さでその妥当性を主張し始めると、簡単に霧消する儚い自由に過ぎなかった。なぜ僕はこんなに明白だった重力を感じようとしなかったのか、いや感じていたのに余りにも当たり前すぎて気づかなかったんだ。欠落はもはや否定として伝染していく力に欠け始めた。僕の孤独ももう欠落なんてノスタルジーに満ちた生易しいお菓子ではなくなっていて、すでに欠落は今朝見た小鳥にも一部埋められてしまったし、僕が生きていくだけで自動的に埋まっていく欠落もドミノ倒しみたいにたくさんある。無いとか在るとかもはや単純に言えなくて、幽霊がいますね、幻想が見えますね、そのように、無いと在るとが相互浸透していく過程が詩を書く過程になった。遠い時間を漂ってきたものを拾い上げて署名する。知らないうちに僕のすべてに贈られてしまっていた血を心臓に届ける。意志からしぐさへ、しぐさから労働へ、労働から経済へ、そこで新しく生まれた体系にぶら下がる。最終的には混じり合えないこの奇妙な怪物のような宇宙だけれど、目くばせするように存在をたくさん投げていく、それが幽霊や幻想となって空間と踊り始めるように。孤独だ! すべての贈り物に応え、すべての歴史を耕していく、そういうふうに孤独だ! そして、何もないところにいつでも体を乗り出している、そんな風に孤独だ! 詩は前進していく孤独のリズムの記号であり、詩は重力の法則にのっとった自由の果てしない外部である。甘ったるい寂しさがすっぽり抜け落ちた僕は、今なら「詩人」を自称できる。



自由詩 詩人 Copyright 葉leaf 2013-10-08 14:38:22
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