某勉強会での記録メモ
中川達矢

(内輪向けの文章となります。アーカイブとして)


テーマ:詩を書くということについての詩を読む


「旅人かへらず」三九・一六七(西脇順三郎)

・青いどんぐりの解釈
→青二才という表現があるように、まだ幼い・若いどんぐりの様子を示したもの。
→本当に青い色をしたどんぐりがある。(幻想的)

・二つのカギカッコについて
→一つ目のカギカッコは、普通に街道を歩いている時に出くわした会話を写し取っただけのものである。会話の内容は口語的、生の声として記録されている。この語り手は、「淋しき」ものを感ぜられる人間であり、そうした「淋しき」の渦中にいる語り手にとっては、会話の内容がどうであるかどうかよりも、会話であれば何でもよかったのかもしれない・会話の存在があるということが大事なのではないか。
→二つ目のカギカッコについて、これは誰の声なのか、という議論はあまりなかった。敢えて言うなら、語り手自身の声ではなく、語り手が窓や話す音に淋しきを見出すように、一つ目のカギカッコの会話を聞いたうえで、頭の中に作りあげた会話だろう。「詩のないところに詩がある」が指す、詩のないところというのは、街道やどんぐりや人の話し声があるような生の世界・日常であり、それら=うつつの断片を写し取ることで詩がうまれるということ。

・こほつた雪について
→こほつた雪は白つつじの花であることが予測される。しかし、こほつた雪を字義どおりに解釈するのか、メタファーとして解釈するのかによって、意見が分かれる。「こほつた雪であつた」と「これはうつつの夢」の間には、本来であれば改行してもよいぐらいの断絶がある。それは、山から下り、渓流をわたり…、こほつた雪を手にしたという経験を対象化したからこそ、「これは」という表現をすることができるからだ。白つつじは5月頃に花を咲かすという指摘があり、やはり、そこにこほつた雪があることは不可思議である。それを字義どおりに解釈するならば、この前半部分は夢のような世界となる。白つつじの花をこほつた雪と喩えているメタファー解釈をするならば、前半部分は現実を夢のように捉えているだけにすぎない。

・幻影の人
→詩集『旅人かへらず』のはしがきに、西脇は「幻影の人は女の人であり、わたしなりに女の人から見た世界を描いたものだ」的なことを述べている。だが、これは、男の人だからそんなことを言うんだ、という意見があった。


「昼と夜」(竹中郁)

・モチーフについて
→1連目は人、2連目は光るものを集めており、特に2連目のキラキラした雰囲気というのが好印象だったようだ。

・「公園の藤棚は呼びあつめる」という表現について
→「公園の藤棚がある」という表現では、その公園の藤棚を見ている主体=語り手の存在を匂わせるが、主体はあくまでも「公園の藤棚」に委ねている表現として、この表現のよさが述べられた。

・3連目について
→この3連目があるとないとでは、この詩の雰囲気は大きく異なる。この3連目があることで、結局、この詩が描きたかったのは、この詩を書くという「わたし」であり、結局「わたし」に収斂されてしまうのではないかという指摘があった。そして、「無頓着に書くのはわたしだ」にある「無頓着」についても議論があった。本当に無頓着である人は、自らを無頓着であると言わないのではないか。この詩における計算・戦略というのがどこまでなされているのか。

・余談:以前、某勉強会での発表のため、竹中郁分析をした時のなかがわの文章
→「昼と夜」という詩では、第一連・第二連は単に昼と夜の公園の光景が描かれている。ここでは、語り手としての私は姿を潜め、無人称的な語り手が存在するのだが、第三連になると「この昼と夜との入れ代りを/無頓着に書くのはわたしだ/ハテ わたしは何だらう」と、突如として語り手としての私が姿を現す。この詩において、第三連があるとないとでは大きく印象が異なる。第一連と第二連の情景を描くものとしての私は、昼と夜との入れ代りを描くものとしての語り手の私であり、詩を書くものとしての語り手の私が姿を現すことで、メタ構造的になる。第一連と第二連の世界を描いているのはわたしだ、と断定しておきながらも、「ハテ わたしは何だらう」と、とぼけるように自己矛盾を述べる。これは、特に第五詩集で見受けられる詩を書く者としての私への苦悩が、そのとぼけ、ユーモア精神によって軽減化されている。

「四千の日と夜」田村隆一
「自戒」吉原幸子

・両者の詩を書くスタンスのちがい
→田村は実に強い言葉・思想・倫理感を伴っている。特に「われわれ」という人称も気になるところで、「見よ」「聴け」「記憶せよ」といった表現からも毅然とした態度を感じる。
→吉原はもう少し「私」に寄りそった個人的態度を強調している。「死にたいと書くことで死なないですむのなら詩はクスリみたいな役に立つ」と、一瞬安堵するような表現があるが、その次の行には「けれどその調子で生きるかはりに書いてはいけない愛するかはりに書いてはいけない」とあり、その調子で書いてはいけないと、自戒を込めて述べている。自戒ということで、茨木のり子さんの「自分の感受性くらい自分で守ればかものよ」という表現が想起され、あれもまた自戒の言葉である。


「理想的な詩の初歩的な説明」谷川俊太郎
→会の中では扱わなかった詩。簡単にのべれば、自らを詩人であるという自覚を利用してかかれた詩。そういう意味では戦略的である。西脇の「詩のないところに詩がある」という表現をもう少し具体的に描いた詩ではないだろうか。




散文(批評随筆小説等) 某勉強会での記録メモ Copyright 中川達矢 2013-10-05 19:58:36
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