すべてを書きたかった
栗山透

5月も下旬だというのにとても寒い日だった
時刻は19時をまわったところで
吉祥寺はまもなく夜になろうとしていた
駅前にはたくさんの人がいる
僕は麻で出来た紫色のストールをぐるぐるに巻いて
冷えびえとした風から身を守っていた

とても信じられないことだが
そこにいるすべての人たちが
なにかをじっと考え込んでいた
通り過ぎていく人たちの瞳を見ると
思考の断片がちらりと窺えるような気がした

僕は仕事がおわったあと
あてもなく吉祥寺の街を歩いていた
夜はますます近づいてくる
遠くのほうに、
小さな三日月が浮かんでいるのが見えた
三日月は一瞬だけその姿を見せると
すぐに建物の影に隠れてしまった
僕はそこで立ち止った

僕はまぶたを閉じてから
大きく息を吐き、また吸い込んだ
ゆっくりとそれを何度か繰り返すうちに
身体が少しずつ夜に馴染んでいくのが分かった
どこからか鳥の鳴き声が聞こえる
鳥は甲高い哀しげな声でなにかを訴えていた
それは映画の冒頭で映しだされる
象徴的なシーンのようだった

僕は映画にでてきた詩人のことを思い浮かべた
彼は鳥よりもずっと哀しい人だった
彼は人生の深みに嵌ってしまいそこからもう
文字通りまともに歩くこともできなかった

「すべてを書きたかった」
彼はそう言った

「完璧だったあの一日も」
「僕の気持ちも、君の人生も」
「すべてを書きたかった」

僕もそう思う


自由詩 すべてを書きたかった Copyright 栗山透 2013-09-20 08:28:58
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