恥知らず
ヒヤシンス


気が付くと私は広大な庭園の前に立っていた。
そこは薔薇の花で埋め尽くされ、屋敷へ続く道は整備されてはいなかった。
庭園の向こう、遥かなる屋敷の全貌は見えない。人間を死の果てに導く薔薇の棘が道をふさぎ、その入り乱れた蔓の隙間から一部が見えるだけである。
私は入り口の大きな門をくぐり抜け、庭園に足を踏み入れた。それがどんな結果を招くかも分からずに。

私はまだ幼い者のように好奇心に満ちていた。怖れは無かった。
なぜ人は大人になるにつれて怖れを成すのだろうと訝しがった。
それは大人たちが常日頃あの屋敷には近づくなと私に諭していたからであった。
怖れ、それはなんと人生を歩んでゆく者の障壁となるものであろうか。
経験、人は経験により喜怒哀楽を知り、それぞれの特別な感情をその懐に抱え込む。
しかし人生とは経験の連続であり、この世に生を享けたものは全て何らかの経験をする。
経験に未熟な私は怖れすら充分に知ること無しにこの庭園に入る事が出来るのだ。

まず、庭園は私をすんなりと園内に招き入れた。
それはまるで悪魔が新たな純血を求めて手招きをしているかのように。
しかしそれも初めのうちだけだった。すぐに棘を持つ蛇の餌食となった。
私の四肢からは血が流れた。その時悪魔は悟ったか。私の血がすでに純潔でないことを。
私の赤黒い血が辺りの薔薇の花弁を汚した。花は萎れ、二度と開くことはなかった。
それに腹を立てた茎たちが私に絡み付き、その鋭い棘で執拗に私を襲う。
私の体の至る所から血が噴き出した。それを浴びた花が次々と萎れ、屋敷への道が次第に明確になってゆく。
いまや屋敷もそのほぼ全貌を現した。しかし忘れてはならない。見えているのは屋敷の表側だけなのだ。
それは私に伝える。人間はその限られた生のうちに物事の全てを知る事など出来ないのだ。それは広大な宇宙だ。そしてそれに絶望する人間は限られている。

私は傷付いた体で背後にブラックホールを背負い、前方に遥かなる宇宙のような屋敷を見据えている。
その屋敷の呼び鈴を鳴らす事が出来るだろうか。しかしなぜ?そこに何がある?
ほんの少しの宇宙を垣間見ただけで満足すべきではないのか?
私は貪欲で頑固な人間だ。貪欲なのは良いが、頑固はいけない。常に頭と心のつなぎ目に気を遣い、その双方を柔軟に育て、維持しなければ。
出来得ることなら人間の美徳を全てぶち壊し、一から知力を積み上げてそれを完遂する体力を持ち、自己の健全たる世界を創造したい。
その時初めて何かを得ることが出来れば。あわよくばそれが誰かの役に立つものであれば。

屋敷は永遠の宇宙の中にただ佇んでいる。その道は険しい。
私は幾度傷付けばその入り口に辿りつく事が出来るのだろう。
自己の限界がうっすらと見えている中、何を頼りに生を全うすればよいのだろう。
分かっているのだ。生も暗いが死も暗いなどと言えるような高みに達していないことなど。
私は私の半身と共に行くしかないのだ。書物・絵画・音楽などは偉大なる先人たちの道しるべに過ぎない。
私には経験が足りない。経験が足りない。経験が足りない。

さて、とにかく一服しよう。詩人には想像力がある。想像の翼に乗ってあらゆる世界を飛び回る事が出来るのだ。
私は私の理解力を高め、想像を逞しく育てながら、時には先人たちの後を辿りながら、自己の魂を激励し、時に蔑み、そしてまた褒め称えて、自己研鑚の旅を続けよう。
そして私の霊感を加えて創造し続けよう。
薔薇の棘は容赦なく私を傷付けるだろう。そんな事はどうでもよい。
屋敷は私のピサの斜塔だ。傾いても倒れるものか。もし私に死が手招いたとしても私はその都度思い出すだろう。私の斜塔を。私の強さの象徴だ。
さあ、煙草をくれ。この世で唯一信じれるものを。それはわたしの現実だ。

薔薇の庭園はその扉を閉じたのだ。永遠に。
そして今こそ私は永遠という奴をこの身を持って経験するのだ。
それは永遠に。永遠に。


自由詩 恥知らず Copyright ヒヤシンス 2013-09-15 13:43:26
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