満月の夕(ゆうべ)
そらの珊瑚
トマトは好きだけど
トマトジュースは飲めない
っていうのと
豆腐は好きだけど
豆乳は飲めない
っていうのは
同じこと?
と彼女に聞かれたので
どうかなあ、
でも
僕は
牛肉も牛乳も好きだし
鳥肉も卵も
因果関係があろうとなかろうと
ことごとく好きだよ
と答えた
猫舌の彼女は
「村上春樹の小説に出てくる人の台詞みたい」
と言って
彼女にとってようやく飲みごろになった
冷めかけた珈琲をひとくち飲んだ
誰それ?
えっ村上春樹知らないの? ほら、月がふたつ在る小説の。
知らない。
……そっか。
驚いたあと残念そうな顔をした彼女
驚いたあと嬉しそうな顔をしてくれれば良かったのに
壁には異国のタペストリーがあった
羊飼いの笛だとか
道に迷った牛だとか
年老いためんどりが星座になるだとかの
きっと何かの物語を織り込んでいるに違いない
白いチョークで描いた
二本の平行線の先に
何があったのだろうか
何か、あったのだろうか
それとも
ごつごつした二級品のアスファルトの上に
正確に真っ直ぐな線を書くことなどどだい無理な話で
(タペストリーにはもちろん描かれない類の話だが)
平行線もどきは
いずれえいえんに離れていくか
交わったあとえいえんに離れていくかだろう
いずれにしても
伝説にも神話にもならない物語だ
そこにあるのは
ふたりだけの事実だということのみだろう
それきり
沈黙した
喫茶店の中を
しみじみと流れていったのは
アン・サリーが唄う
満月の夕だった