朝の日記 2013夏
たま

ひもじいといって、啼く蝉はいない

白亜紀の時代から
ひとはひもじい生きものだったという
そのひもじさに耐えて、恐竜から逃れて
生き延びることのできる生きものだったという

生きて
生きて
生き延びてと、ことしの蝉は啼きさけぶ
白亜紀は無理でも
せめて、縄文の海辺にもどりたい
たとえひもじくても
そこには汚染を知らない海がある

いつもなら、蒼い稲穂に花が咲くころ
その花粉の香りにつつまれて
夏の朝を迎えているはずなのに
もう、田んぼとは呼べない雑草の
生いしげる原っぱ
も吉や、れんちゃんとともに
二十年あまり親しんだ田んぼが
面影もなく消えた

その原っぱに介護施設ができるという
戦前戦後の飢えを生き延びた人びとが
冷めたテーブルの席で、午後のおやつを待つ 
ひもじくても
ひもじいと、言えない老後
それはおやつではなくて
帰りたくても帰れないふるさとの野山のような
遠い風景なのだ

たとえば、十九の夏を
わたしは蝉のように生きたと
今になって気づく
ほんとうにひもじい夏はこれからやってくる
もうすっかり、覚悟はできているはずだ
どんなに
ひもじくても
おやつのある老後はいらないと

生きて
生きて
生き延びて
せめて、もう一度
縄文の海辺にもどってわたしたちは死にたい
ひとの手垢を知らない放射線を浴びて
たったひと夏でもかまわない

ひもじいといって
啼く蝉はいないのだから












自由詩 朝の日記 2013夏 Copyright たま 2013-08-25 11:05:27
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