背負って生きられるのかね
影山影司
植木鉢を抱えている人が増えたね。
カミオは、トットに二杯目のワインを薦めた。このレストランで、一番の売れているワインだ。店が売り出しているということは、利益率が高いか、美味いかのどちらかだろうとカミオは踏んでいる。赤いワインが好きだというトットは、グラスをカミオの方に寄せてそれを受けた。カミオ自身は、ワインの味はよく分からない。ただ、相手と同じ物を飲みたいと思うから、トットのグラスに注いだ分、自分のグラスにも注いだ。
「抱えているんじゃないの。あれは、生えているのよ」
トットがグラスを傾けると、まるで地球が傾いたみたいにワインが彼女へと流れ込む。決してがぶ飲みをするわけでもなく……事実、彼女の嚥下する喉は、ほとんど動いていない……静かに、静かにワインを楽しんだ。カミオはそれを見るのが好きだった。
「最近の流行りなのね」
と、トット。
彼女の冷ややかな目は、窓の外を通る通行人に向けられる。
その横顔の、鋭く高まった鼻の、指す方向に彼女の見ているものがある。トットの瞳の表面にも、ほのかに同じ光景が反射して映っているだろう。そこに自分だけを、ずっと映せたら自分はどう思うだろう。カミオは、時折結論にたどり着かない程度にそのことを考える。
トットの見る通行人は、植木鉢を抱えていた。赤ん坊を支える、抱っこ紐のようなものを肩から腰に掛けながら。前開きのボタンシャツを、一つずらして着て、首元には根が滑りこんでいる。これから情事をするよ、というように。木の種類はなんだろうか。カミオは自然を愛でる趣味がないので分からない。縄のような、苔の緑を浮かべた根っこがゆるやかに胸元へと伸びている。
トットの鼻先から、色の薄い唇、陽に溶けてしまいそうな細い顎、抱きしめて折ってしまいたくなる首筋、そのすぐ下にある、華奢な貝殻のボタン。淡い乳白色に、虹色を浮かべている。
それを外して、自身の手を滑り込ませたらどうだろうと想像する。
「人は生きてるだけで、地球を汚すと考えているのよ。原罪、って言うのかしら。生まれてきた時に既に罪人だと……。そういう人達が、あの植木鉢を抱えているの。植わった植物は根を、宿主に伸ばして栄養を貰うわ。血中の二酸化炭素を吸って、酸素を排出したりもする……。それであの人達は、少し気を休めるの。自分達が少しは、まともになった気がするのね。自分達が他の誰かを生かしていると、有用だって安心するの」
カミオはそれに対して、何も答えなかった。
なんで、それでまともになった気がするのだろう。
カミオは、ワインを飲み干す間そのことに関して考えた。
トットに聞けばすぐに分かったが、分からないと知られたくなかったのだ。
何日も前からしていた、昼に会おう、という約束だったが、いざ終わってしまうとあっけない。昼下がりの時間になる前にトットは帰ってしまった。二人分の会計は既に済んでいて……トットがこれしかないの、と高額紙幣一枚を置いていった……カミオはしばらく、レストランの椅子にもたれかかったりして、木が軋む音を楽しんだ。
気がつけば、雨が降っている。
やけに暗いな、と思ったら夕立だったようだ。
あっという間に激しくなる雨を見て、カミオは少し考えた。洗濯物と、荷物のことだ。幸い、ここへは財布以外、何も持ってきていない。洗濯物は、干していない。さらにもう少し考える。濡れて帰って、シャワーをあびるのも悪く無いだろう、と。
カミオは店を出た。
遠くで、雷の音がした。
稲光は音よりもずっと強烈なのに、遠くの雷は音しかしない。だんだん泥沼のような感触になっていくスニーカーを踏み締めて、カミオは家へと急いだ。道中、蓮のような葉っぱを傘にしている人を見つける。赤茶けた鉢を抱えて……もしかしたら、体が濡れないように葉の下に体を隠しているだけかもしれないが……カミオは、それが少し羨ましく感じる。
家につくと、まず風呂場へ爪先立ちで行き、服のままシャワーを浴びた。生ぬるい雨が、冷水で洗い流されるに連れ、服を少しずつ脱いでいく。床に溜まった衣服を、足で踏んで絞りながら、裸になった。トットと会ったのはつい最近だ。時折、彼女がどういう人間なのかを考える。仕事先で出会い……彼女は職場に出入りする業者の一人だった……挨拶を交わすうちに、お互いの連絡先を交換して、それからさらに挨拶を重ねて、食事の約束を取り付けた。
その時話したことを思い出して、彼女のことを理解しようとは思うが、そこから先へ想像を進めるのは良くないだろう。それは、隣人の食卓を見て家族の様子を探るようなものだ。想像でしかないことで、一喜一憂したり、相手のことを愛したつもりになってはいけない。
カミオは、その点に関しては分を弁えている。ストイックさがあった。
トットは、人との食事を喜ぶような人間ではなかった。彼女は、一人で十分なのだと時折言う。人と喜びを共有したり、悲しみを分かちあったりしなくてもいいのだと。カミオとの初めての食事で、トットは静かに尋ねた。
「あなたは、私とどうしたいの」、と。
カミオは答えにしばらく困って、村上春樹のようなことをしたいのだと言った。
「そんなにベタベタしようってんじゃないんだ。僕がいて、君がいて、僕がパスタを茹でる。君は本を読んでいる。何を食べたい、と君に聞くとトマトの赤さが引き立つソースが良い、と言う。僕は丁度ホールトマトの缶を開ける所で、それをやけに嬉しく感じる。どちらかの考えをねじ曲げて、寄り添うんじゃなくて君となら二人でやっていけるんじゃないかと思うんだ」
「パスタを茹でたらどうするの?」
「二つに割って、皿に盛って、割り切れない方を僕の皿に足す。二人でそれを食べて……」
「ワインを飲んだり?」
「コーヒーを飲んだりして、退屈な午後を自然と受け入れる」
自然と?
トットが微笑んだ。
「退屈でも、それを退屈と感じずに、幸せと感じられるように」
「じゃあ、その後は?」
「いろいろさ」
「色々?」
「そう、出掛けたり、映画を見たり、音楽を聞いたり、しなかったり……」
「セックスしたり?」
カミオは、しなかったり、という言葉を飲み込んだ。
結果から話せば、カミオはその日、トットの体を楽しんだ。掌までなら、どうしても良い、という言葉に従い、それ以外の部分が触れないように注意しながら、手だけで彼女のことを調べた。はじめは、自分と異質な肌の感触に戸惑う。夏場、頬ペタをつけて涼んだ机のようにトットの肌は冷たく……骨の感触は、控えめだった。ある種の工芸品、と言われたほうが扱いが楽な気がする。なまじ好きな異性だったせいで、強く握りしめたくなる。
行為が終わって、シャワーを浴びると、トットはすぐに帰ってしまった。
カミオは送るつもりだったが、トットはやんわりとそれを断った。
他人と時間を共有したら、それと同じ時間、一人にならなくてはいけないのだと。
カミオは彼女の意志を優先した。
風呂から出た後、ハンガーにかけてあった一度使って洗っていないタオルで体を拭いた。洗濯をしたいタイミングに、雨降るのは被害妄想だろうか。風呂場の床に押し付けられた衣服を拾い上げ、洗濯機へ放り込む。ガーゼシャツと、タイパンツを履いてベランダに出る。ひさしの下、雨の当たらない部分には少しのハーブと季節に合わせた葉野菜をプランターに植えてある。
ペットボトルに汲んでおいた水を、ゆっくりとプランターへ撒いていく。
どれだけ慎重に水を注いでも、水は黒土をえぐっていく。はじめの頃より、随分土が減ってしまった。くるくると渦を巻く水面を見ながら、土を買ってこようと考えた。
昨今の流行りは、一抱えの鉢を抱えて歩くことだとトットに聞いた。
重いからこそ意味があるのだと。
それは、言ってみればイエスキリストの真似なのだ。十字架を背負って、自らの処刑場まで歩いたように、鉢とともに歩くことで、罪を浄化しようとしているのだ。カミオの育てているハーブは、拳ほどの鉢だ。しかも、それは量販店で買った安っぽいプラスチックの。
懐にハーブを忍ばせた自分を想像する。
匂いは少しマシになるだろう、とカミオは思う。
トットとカミオが雨の日に別れて、数日が過ぎた。
珍しくトットからの連絡と、自分の家へこないかという誘いがあった。
カミオにそれを断る理由はなく、日が暮れかかる時刻に二人は会う約束にした。
トットはカミオのことを気に入っていた。率直に言えば、愛していた。ただ……それなのに、一歩進みきれない。それは、トット自身がどうしていいか分からないからなのだ。カミオもトットも、お互いそれなりに恋愛の経験はある。ただ、愛したり、愛されたりの経験に欠けていた。
自身が熱心になればなるほど、その熱意にどう動いていいのかが分からなくなる。
相手の気持ちを感じれば感じるほど、自分がそんな気持ちを受けるのはもったいないと考える。
だから、繁盛に会う。繁盛に会っては、意味のない会話をして、別れるのだ。
カミオは、驚いた。
先日あった時には、何もなかったはずなのだ。トットが、斜めがけのメッセンジャーバックを背負っていたからだ。そこから細い緑のつるが伸びて、彼女の黒髪の下をくぐって、背中へと滑り込んでいる。
「わあ」
と、カミオは素っ頓狂な声を上げる。
「似合う? シダを生やしたの」
似合ったり、似合わなかったりするものなのだろうか。カミオは、自分がまるで老人になったような気がした。ピアスやタトゥーを見た祖父が、わざわざ体を傷つけなくても……と否定したように。
「ふうん」
なるべく、冷静な声を出すようにした。
「なんで、シダを? 普通は、もっと大っきな植物を育てるものじゃないの?」
「なんでも良かったのよ。重いのは嫌なだけで……。修行僧じゃないんだから、難しく考えずにやってみたかっただけなの。それに、ほら」
トットの白い指先が、背中で揺れる青い葉を撫でた。
「エクステみたいじゃない。こうやって見ると」
確かに、肩甲骨を覆うほどある髪の下、彼女の身動ぎに合わせて揺れる葉は、毛先だけを染めたような鮮やかな緑だ。その一つが、摘まれて、爪先が少し食い込んだかと思うと、プツッとちぎり取られた。
「こうやって触ると、微かだけど感触があるの。体が繋がってるからなのかな。神経なんて、通ってないのにね。事故なんかで腕が無くなっても、腕の感触が残ることを幻肢痛って言うんだけど、これも幻肢痛の一種なんだろうね。今は触ってるかどうかくらいしかわからないけれど、何年も一緒になっていると、自分の体と変わらない感触になるって」
カミオは、目眩を感じる。
嫌悪感の混じった、立ち眩みだ。浮気現場を覗いてしまったような、薄暗い気持ち。
「嫉妬だ」
ぽつり、と感情が口をついて出た。
「僕は今、嫉妬しているんだ」
「どこに?」
「君の体に、君以外のものがひっついて、時間をかけて、君と同じ生き物になることが」
「だって、相手は植物なのに?」
トットはケラケラ笑った。それでも、とカミオは思った。トットの首筋に手を回し、彼女の両腕ごと抱きしめる。耳たぶに唇が触れるほどの距離で、囁く。
「それでも、嫌なんだ。僕以外のものがそうすることが、嫌なんだ」
しばらく、間の悪い静かな時間が過ぎた。
次に口を開いたのはトットだった。
「じゃあ、あなたも、生やしてみる? 私と同じ株を、私の体ごと、繋げてみる……? シャム双生児みたいに、二人で一つになって、それで、生きていく?」
トットの吐息が、カミオの鎖骨に当たる。
「同じ物を食べて、飲んで、同じ物を見て、同じ時間に寝て……怪我したら同じ痛みを感じて、右手と左手がお互いを支えあってるように」
「二度と離れないように」
「そう、ね」
カミオの両手が、背中のメッセンジャーバックの口を開けた。
その中身を指先で探り、少し力を入れて、抜き取る。土から顔を出した根は、生まれて一度も触られたことない、生娘のような姿だろう。指先でその感触を楽しんで、ぼんやりと思う。
一歩踏み出すとは、こういうことなのだと。