岸田劉生「写実論」を読み解いて考える、批評とは何か
中川達矢

※授業のレポートで書いたものです。少々わかりづらい文脈があるかと思いますが、ご容赦ください。

0.はじめに
 写実とは何か。
 そもそも写実的な絵を私は好まない。いや、今となっては、その美がよりわかるようになったと言えるだろうか。写実的な絵は、オリジナルとなる風景をただ写し取っただけのものであり、そのどこに感動を覚えればいいのか、という戸惑いがあった。しかし、写実的な絵の醍醐味は、そのオリジナルである風景とコピーとも言える作品の比較によって考えるのではないのだろう。いくらコピーである作品を見たところで、そのオリジナルを知らなければ、その比較ができない。だが、そのオリジナルを知らなくとも、コピーとも言える作品から感動を覚えることもある。つまり、写実という手法の名において、オリジナルから生まれたコピーである作品、という認識自体がそもそもの誤りなのであり、コピーである作品もまたオリジナルであると思わなければならないのだろう。
 ここで少し話が脱線するが、私は最近authorityという問題をよく考える。この言葉は「権威」と訳される言葉であるが、文字を見ればわかる通り、author、つまり、「作家」と訳される言葉と近い関係にある。芸術においてのauthorは「画家」になる。その画家は、作品に対して「権威」を持っている。それはどのような権威であるか。簡潔に述べるならば、「どのように描くのか」という権威である。題材の決定、手法の選択、割く時間、作品を完成させることなど。言いかえるならば、画家が作品を描く際に反映させる「数々の選択」である。たとえ、印象派であろうと、キュビズムであろうと、抽象絵画であろうと、時代性や手法によってひとくくりにされている1グループ内において、全てにわたって同じである絵画が生まれたことはかつてあるだろうか。モネとルノワールは手法が似ていようとも、描いているものは全く異なり、ピカソとブラックも似ている箇所は多く見受けられるが、その両者は全く違う絵を描いてきた。それは、画家が一人の人間であり、作品に対してauthorityを持ち、様々な選択を反映させているからだと言える。
 このことと写実を考えるにあたり、写真についての意見を述べたい。写真は絵画と比べれば、オリジナルである風景をコピーする完全的な道具である。絵画は絵の具という現実とは異なる素材を用いて現実を描くが、写真はデジタル(1と0の数字)によって現実をより現実的に描く。無論、数字ではない現実(オリジナル)と数字である写真(コピー)はその内実においては異なるが、肉眼でその両者を見比べれば、写真は限りなく現実をコピーしたものであると言える。だが、果たして写真は現実のコピーであると言いきっていいのだろうか。写真は、現実の切り取りである。空間的にも時間的にも、現実の一部しか写しとることができない。そして、何よりも、写真はその写真家の選択が反映されているものだ。例えば、人を10人集めて「夕方5時に立教大学の本館を撮ってきてください」と指示したとする。時間・空間の限定をこのようにしたところで、どのような結果が出るかは想像に過ぎないが、全てが同じように撮られた写真が提出されることはないだろう。何故このようなことが言えるのかと言えば、写真家のauthority、選択がなされるからだと言える。何を・どこを美として、それを被写体にしようと思うかどうかは、写真家に委ねられている。そうした選択の権威があるからこそ、撮られたもの(作品)は異なるものになる。
 写真を例に考え、これを写実に援用するならば、やはりオリジナルとコピーが似ているか似てないかといった比較の問題ではなく、作者は何故それを選んだのか、というauthorityの反映の違いこそが、写実を楽しむ術になるのではないだろうか。私はこのように考えついたことによって、写実的な絵を楽しめるようになったと言える。そしてauthorityの問題をもう少し考えるならば、authorityは画家だけが持つものではない。描かれる対象である風景もまたauthorityを持ち、画家に絵を描かせる権威を持つ。選ばれる風景と選ばれない風景。画家が風景を元に絵を描かなければ作品は生まれえないが、そもそも風景がなければ画家が写実的な作品を描くこともできない。画家が風景を描くとともに、風景が画家に描かされるとも言えるだろう。
 以上、序論が長くなってしまったが、これらのことを踏まえ、岸田劉生の「写実論」を丁寧に読み解き、最後に「批評とは何か」という批評を述べたい。


1.岸田劉生「写実論」(pp.81-98)を読み解く。
 ここで、改めて問題意識を確認する。写実とは、オリジナルとなる風景とコピーである作品の比較が評価の軸となりうるのかどうか。そして、写実には、画家のauthorityという問題がどのように関わってくるのか。この二つの問題意識を元に、岸田劉生の「写実論」を参照したい。
 劉生の「写実論」は多くの写実家が陥る間違いを指摘し、その批判から始まっている。

「なんでもかでも自然なら美しいのだから、それをただ忠実に写しさせしたらしたがって美も宿るわけであると考える。」p.81
 
その上で、「本当」「事実」「真実」というキーワードを持ちだす。

「人生や芸術には『事実』以上のことがある。人生の目的にとって、「本当」のことか否か、これが大切である。すなわち、「事実」と「真実」の相違である」p.82
 
「事実」と「真実」という言葉の違いは、日常ではあまり意識されるものではないが、劉生の言う「事実」は言わば、オリジナルとコピーという比較のことであり、「真実」は「事実」以上のことである。この「真実」という言葉に劉生はどのような思いを込めているのだろうか。劉生はたびたび、真善美を批評の言葉として用いる。これらは言わば、プラトン的イデアの世界であり、言わばあるべき姿、理想の姿を指しているのだろう。しかし、イデアは、目に見える世界にあるのではなく、目に見えない世界にある。これもまた劉生がたびたび述べる、有形・無形というキーワードに即していると言えるだろう。つまり、オリジナルやコピーの軸で絵画を捉えるのが「事実」であり、その軸に捉えきれない何かが「真実」と言える。では、「真実」とは何であるか。
 
「『真実』はすなわち美である」p.82
 「この『真』を余所にして、自然の形に美はない。元来自然は美でも醜でもない。自然にすぎない。それはただの事実である。ただ人の心はそこに『美』を見出す」p.82
 「芸術における写実が、もしこの事実または自然をありのままに写すということに止まるならば、その道は芸術であるとは言えない。そこにはなんの『心』の問題もなく、無形の域がない」p.83

 事実=自然だと劉生は述べ、真実にあたるものは「心の問題」だと言えるだろう。こうした「心の問題」は、劉生の言う「内なる美」というキーワードと結びつく。劉生は、芸術において重要なのは、「内なる美」を表すことだと述べている。

 「本当の写実の道は、言わば『写美』の道である。すべての美術の道は『写美』である。少なくも『内なる美』を表現するということにどの道も変りはない。ただ写実が写実と言われるのは、自然物の形象の中に美を見て自然の形を追うことが、すなわち美を追うことであるからである」p.83

 ここで、写実に対する重要概念を述べている。「自然物の形象の中に美を見て」というのは、まさに、美である自然物⇔自然物から美を見出す画家の関係が示されている。そうした画家による美の見出しが「心の問題」なのである。だが、ここで一つ疑問を呈したい。自然物から美を見出すことがごく自然であるかのように劉生は述べているが、果たしてそうであろうか。つまり、自然物の形象の中から美を見られないこと(可能性)を劉生はどのように考えていたのだろうか。このことから、少々エリート主義のようなものを感じさせる。画家が自然物から見出す美と作家や占い師や教師や児童などが自然物から見出す美は、必ずしも一致しないだろう。それは「心の問題」(authority)だからだ。しかし、劉生が思うところに、究極的な美が纏う姿や向うべき美は唯一であるような印象を受ける。なぜなら、真善美やイデア的な理想を劉生が讃えているように思えるからだ。後述する「批評とは何か」でも考えたい問題として、「書き手の立場」と「読み手の立場」に対する批評家の意識があげられる。劉生は画家であり、批評家だ。そうした点で、劉生は「書き手の立場」を強く保持したまま批評を述べているように思える。そして、こうした批評を読む私たちは、必ずしも画家ではない。この二つの立場の問題は、書き手だけにあるのではなく、読み手にもあり、読み手はどこまで書き手に近づくべきか、もしくは、立ち向かうべきか。後で考えたい。
 とにかく、劉生の考える写実とは、「事実」だけでなく、「心の問題」を伴った「事実」以上の「真実」がそこにはあると述べる。この「写実論」の冒頭で批判していたことは、「事実」だけによって写実が成り立つとする立場の人に向けてのものである。
そして、劉生は「心の問題」および「真実」について筆を進める。

「内なる美または装飾というものは、生れながらにして、人間の内部に意識されるものではなく、自然の形や色を見る中に誘発されてくるものである。いろいろな形を見て、そのうち一番好むものを選ることを知るのが、内なる美の目覚めである」pp.84-5

 これは先ほど私が述べた、美である自然物⇔自然物から美を見出す画家という関係を示している。つまり、自然物がただあるだけでは、美にはならず、自然物に触発されながら画家は「内なる美」を養い、その養った「内なる美」を持って自然物を選ることが必要になるという循環論にもなっているだろう。ただ、ここでどうしても目が行く表現は「一番好むものを選ること」ということだ。これは私が述べてきたauthorityとも言えるだろう。自然物を描くということは、どういう自然物を美とするかという画家の選択を伴う。そうした選択の力を養うこと、持つことが「内なる美」であり、写実におけるauthorityである。

 「ただこの模写する本能と、自然物によって誘発された、内なる美(または装飾)とが一致するときにそこに芸術が起因する。この模倣性と、自然物によって誘発された内なる美とが一致して、さらにそれが有機的に生きて来ると、すなわち写実の道となる」p.85

 この箇所に、劉生が述べる写実論が集約されているだろう。画家は機械ではない。自然物をただ模写するだけではない。自然物(外)⇔内なる美(内)の一致が果たされた時に、芸術が完成する。自然物がただあるだけではなく、画家(の内なる美)がただいるだけでもなく、その両者の一致が芸術のためには必要になるのだ。写実は単なる風景の記録ではない。それは、風景の記録であり、また、画家の内なる美の記録でもある。だからこそ、写実もまたオリジナルとなりうるのであり、劉生が「事実」ではなく「真実」を重んじている理由がここに見受けられるのではないだろうか。この後に続く議論は、このことの繰り返しに過ぎない。

 「写実の道の特質は、外界の形象と内なる美とが一致して、外界の形、すなわち美となる点にある」p.88
 「外界の形象をさながらに生かすことによって『内なる美』を生かすこと、また形象の視覚的全部を美とし美化するのが写実の道である」p.89

  しかし、劉生はそうした風景と作品の視覚的要素の議論から、触覚的要素へと話を進める。正直、私にとってはこれが意外な点だと思えた。

 「写実ということの意味を知るには質の美が写実の土台となることを知らねばならない。この道を通ることによってさらに深い写実としての美術的領域に至るのが写実の道である。
この質の美感は、物質またはその現象そのものの美化であって、それは主に、触感の造型的表現ということができる。
(中略)
かくて、乾いた土はほろほろと、草や樹木は土から生え、茶碗は打てば音がするごとく、持てば冷たく表現される」p.90
 
 この指摘は言わば、自然物への賛美だろう。コピーとも言える作品にもまた、オリジナルとなる風景の「質の美感」が求められると言う。何故、劉生がこのような議論を展開しなくてはならなかったのか。それは次の点からわかるだろう。

 「触感は既に目に見えているようで見には見えない無形な感じではあるが、それを表現しようとして起る愛感はさらにその無形な域に加わって得た一つの心を加える」p.91

 触感は、劉生が重要だとしていた無形な域および「心の問題」と関わっている。
視覚<触角という構図が劉生にはあり、視覚は言わば「事実」の領域であり、オリジナルとコピーの問題であり、触角は言わば「真実」の領域となり、「心の問題」となる。おそらく、視覚の点から言えば、オリジナルに優るコピーは存在しない。それはただ単に似ているかどうか、という点でオリジナルの追求になってしまい、コピーはただのコピーに過ぎなくなってしまう。触角の点でも、コピーはオリジナルの触角を追求することで言えば視覚の点と変わらないのだが、コピーが触角を誘発させるものであれば、コピーもまたオリジナルとなりうる要素を持つと言えるのではないだろうか。
 この点に関しては少々私の議論が強引だが、劉生は議論を進め、この質の美感の追求だけではなく、もう一つの深い無形の域があると述べる。それが、「写実における写実以上の域である」(p.92)である。何とも、答えになっていない答えである。

 「質の美もむろん、形を超えたものである。美である以上それは形ではない。ただ心に映ずるときもまたそれが表現されるときも、形に宿るだけである。畢竟美とは形に宿る形以上の形である」p.92

 この点でわかるのは、やはり劉生が重視していたのは、オリジナルとコピーの比較で写実を語るべきではないということだろう。無形の域とは何か。それはやはり「心の問題」に真意がある。画家は作品という一つの形を持って、見る人に美を提示するのだが、その美とは何か。

 「物の美ではない。作に籠る精神、または画因に宿る精神と言ってもよい」p.92

 オリジナルとなる物の美が重要なのではなく、作に籠る精神、つまり、その作が生まれるにあたって作者が持つ精神が美なのであり、それこそが、無形であり、「内なる美」なのだ。視覚的にオリジナルとコピーを比較するだけでは見えてこないものである。なぜなら、精神は目に見えないからだ。そうした美である無形や精神を見るためにはどうすればよいのか。

「物象の美感のときは、まだ心をもって形を見るのである。この域だとてむろん、深い『心』がなくては見えはしない。肉眼をもって形を見るのとは違う。その美は幾度もくりかえすが、やはり永遠な無形である。しかし、心をもって心を見る域はさらに深い。この域にまで到れば、写実はその唯物的な臭みから全く救われる」p.93
 「心をもって心を見、心をもって心を描き出す域である」p.93

 劉生はいとも簡単に、心をもって心を見るべきだとのべている。やはり答えになっていない答えであるような印象を受ける。「心をもって心を見たまえ」と言われたとしても、実際にはどのようにすればいいのか、そうした過程を説明することはしていない。むしろ、それはできないことなのであろう。なぜなら、それは無形であることだからだ。無形であるものを言語という形を纏って表した結果が、劉生なりのこういう言い回しになったのだろう。
 ここまで来れば、劉生の重要な議論をさらったはずである。後は、重要な箇所だと思われる部分を引用し、劉生の「写実論」についての考察を終える。

 「むろんこの唯心的領域のみでなく、写実的美を追うときでも、この作品と対象との美の比較がなくては美を作に籠らすことはできない。手法というものは元来美でもなんでもないものだが、『内なる美』がそれを統一し、美に適うように組立てるのである」p.95

 「たとえ物の美の描写は乏しくなっても、精神が実在を借りている以上、その精神も一つの実在である。客観的に肉眼を通じて視られるものである。それを写すのであるならば、その道はやはり写実と言い得る。物質や物質の美のみが実在ではない。物があればその精神もある」p.97

 「作家にとって精神を美化することはもっとも大事でありまた力の要ることであるが、同時にその精神を護り立てている諸物象の様々な美を写すことはまた幸福なる喜びである」p.98
2.批評とは何か
 先述したことを改めて述べたい。批評について考えたいことは、批評家は、書き手(作者)の立場を守るのか、読み手(読者)の立場を守るのか。劉生の「写実論」は、書き手の立場に重きがある。それも多少のエリート主義を感じさせるものであった。
 この問いは、両者(書き手⇔読み手の擁護)とも答えになりうることだろう。書き手は、自らの手法や主張を擁護するために、自らが持つ特徴を讃え、これこそが真であり、美であると訴えることを批評ですることができる。読み手は、そうした書き手の立場を無視して、自らの読みの正当性を訴えるために批評にあたることができる。
 しかし、この議論を考えるにあたっては、次の点が指摘できる。果たして、批評は誰に宛てて書かれているものなのだろうか。劉生の批評は、指南書であるとは言い難い。美術館に観光で訪れるような人に対して宛てているようには思えない。自らの立場を弁明する形で批評がなされており、もしその宛て先を想定するならば、同時代に生きる、流派の違う画家や批評家であり、将来『美の本体』を読み、芸術を志すであろう後代に向けても宛てられているように思える。そのように感じるのは、劉生の批評が、少々高尚味を纏い、芸術とはこうあるべきだ、と主張している点にある。だが、中原佑介の『現代彫刻』は、どちらかと言えば、指南書に近い。美術館に観光で訪れるような人が読んでも、多少は難しいものではあろうが、まだ、劉生の批評よりは親和性を感じるだろう。つまり、こうした宛て先や立場を考えるということは、批評家によるauthorityを考えることと重なってくる。批評にも当然書き手がいる。オリジナルとなる作品があり、それについての批評は2次的な創作と見ることもできるかもしれないが、それはコピーではなく、批評もまたオリジナルなのである。そのオリジナル性を生むのが、authorityである。
 しかし、オリジナル性を纏わないコピー的な批評も存在する。それが理論を用いた作品の読解だ。端的になるが、自然科学における法則は、「いつ・どこで・誰が用いても」同じ結果が生まれる。ケプラーの法則、ボイル・シャルルの法則など。無論、法則が書き換えられることも起こる。それは、自然科学が人間の観察から生まれているからだ。人間の観察を元に、自然現象を説明するツールとして法則が生まれ、その法則は普遍性を持ち、「いつ・どこで・誰が用いても」同じ結果が生まれるものとなる。だが、ニュートン力学にしても、ユークリッド幾何学にしても、それでは説明しきれないことが新たに観察され、法則が新たにされる。それは、人間が生きる世界そのものも生まれ変わっているからだ。話が逸れたが、文学における理論は、オリジナル性をもたらす批評家のauthorityを希薄化させるものだ。物語論におけるプロップの「物語の類型」はまさにそうだろう。ある作品に対して、物語の構造を分析・解体し、物語を記号化する作業となる。それは訓練が必要なことではあるが、おそらく、その分析の結果は一様になるものだ。そこでは批評家による感動や関心は排除されてしまう。また、批評家のauthorityを希薄化させるだけでなく、作家のauthorityをも希薄化させてしまう。それはどういうことか。「物語の類型」は物語の構造を○○+○○+○○という図式化が目的となるが、作家はその要素を選択し、結合の密度をも選択している。「なぜ、作家はこうした要素を用いて、このように結んだのか」という疑問こそが、批評家を批評へと駆り立てる原動力にもなり得るが、数字や図式には、そうした「なぜ」が問題となることはないだろう。こうした分析は単なるオリジナルのコピーであり、批評家および作家のauthorityを希薄化させてしまう。批評がオリジナルになるためにはauthorityを保持しなくてはならない。
 では、批評におけるauthorityとは何か。ここで、答えになっていない答えを提示したい。それは劉生が述べた「内なる美」だ。批評は批評する人間によって書かれる。その人間には、一人一人によって異なる「内なる美」を抱えている。つまり、何を美とするのか、という選択の価値基準を持っている。そうした基準は、その批評家がそれまでに養ってきたものであり、「心の問題」である。批評は、作品の単なる記録ではない。批評家の記録でもある。作品の美と批評家の持つ「内なる美」とが一致した時、芸術とも言える批評が生まれるのであろう。つまり、批評もまたオリジナルであり、作品である。批評家と言う「内なる美」を持つ人間が書くからこそ、作品となるのだ。
 批評とは何か。それは、批評もまた作品となり、作品の記録だけではなく、批評家の記録でもある。

※余談
1.2012年2月に青土社から『批評とは何か』という著作が出版されている。マシュー・ボーモントという方が、テリー・イーグルトンにインタビューした記録が載っているらしい。訳者は、お馴染みの大橋洋一。まだ読んでいないが、内容が気になるところだ。

2.飯島耕一の詩集『next』(1977)にある1篇の詩に、岡本謙次郎の『運慶論』を読んでいた、という記述があった。手元に詩集がなく、その箇所を引用することができないが、この記述があったことは確かなことである。よくよく調べてみたら、飯島と岡本は年齢が若干離れているが、両者とも元明治大学の教授であり、親交があったのかもしれない。どうして、全然別の場所で読んだものが、こうやって繋がるということが起こりうるのだろう、不思議だ。
 いや、さらに調べたら、岡本は飯島が同じ大学で働いていたことを知ってはいたが、会ったことはないらしい。ただ、飯島の詩集をよく読んでいたとのことだ。こちらのサイトには、岡本が書いた『ゴヤのファースト・ネームは』評が載っている。
http://home.catv-yokohama.ne.jp/aa/stroll/


散文(批評随筆小説等) 岸田劉生「写実論」を読み解いて考える、批評とは何か Copyright 中川達矢 2013-08-01 23:12:33
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