果樹園
葉leaf

散歩者たちが、特に詮索するのでもなく、歩行の余興のように視界の端にとらえておく果樹園。それは、少し中に入ればわかるが、空間を切り開き、うねるようにして迷宮を作り出している、風の身体によって隅々まで踏み込まれた一個の全体だ。古い幹から意想外の方向へと伸びていく太い枝は、さらに細かい枝を八方に伸ばし、そこに夥しく葉が付属する。年を経て密な果樹園にひとたび踏み込めば、植物の濃密な体臭と影によって、途端に方位がわからなくなり、自らの身体が混沌の中で支えを失ったかのように思われる。

農家はたいてい、果樹園を四角形として所有しているが、その四角形もまた、台形であったり、ひしゃげていたり、たわんでいたり、陥没していたりと様々である。そして、その四角形は多様な意味を帯びている。四角形のこの一辺は、あの若者が毎朝ランニングで通る道に接している、四角形のほぼ中心では、あそこの家の猫が糞をした、四角形のこの部分には、かつて別な種類の果樹が植わっていた。そして一番大切な意味は、その四角形が、農民の労働が大量に撒き散らされることによって、著しく傷つきまた喜んだということである。

労働は直接価値を生み出すのではない。いくつもの媒介を経て、労働は間接的に、ぐねぐねしたベクトルに沿って価値の方向へと向かう。農民は労働にすべてをつぎ込む。朝食の味わいも、妻との口げんかも、息子の出世も、趣味のハーモニカ弾きの楽しみも、すべて労働の坩堝の中にねじ込んで蒸発させる。そして、労働はその時々に花を咲かせるのである。見よ、農民が苗を植えるために穴を掘っている、その穴の底にたおやかにさく一輪の花を。見よ、農民が桃を収穫する、その腕の軌跡に沿って連なる無数の花弁を。

果樹園には常に農民の労働の花が堆積していて、例えばそれが風に吹かれて都会の窓ガラスを揺らす。都会の住民は、そのとき何か政治的な発明をするかもしれない。例えばそれがいくつもの山の頂で、石が転がる瞬間を記録する。山はそのとき地層の順位を交換するかもしれない。例えばそれが一組の男女の間にきわめて鋭利な距離を育む。男女は愛の位相が変化したことを知るかもしれない。

農民は今日も果樹園で働く。その手から、足から、目から、夥しい微小な花吹雪が散らされ、世界を少しずつ変えてゆく。


自由詩 果樹園 Copyright 葉leaf 2013-05-24 16:31:34
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