例えば言葉は
汰介

力とは、言葉そのものを、自身の肉体以上に愛せるか、それだけなのだろう。

言葉の力を信じきれるか、その度合いによって、
それは恐らく政治力、現実の行動でさえも包括してしまうに違いない。

例えば、破壊的な言葉にしろ、その背後に、
結局、個人的な色恋等の欲求が、隠れているに違いない。
大概それを裏切られた場合、破壊的な言葉で(それを一見柔らかさで包み隠しているにしても)世界に対して権力を誇ろうとするに
違いないと、個人的には思っている。
それに社会的な事柄が組み合わさっているので、複雑に見えるだけであろう。
そうする事によって、世界から受けた傷、その大元を呼び寄せようとする、
又は確認したい、と言う、屈折した求愛行動なのだろう。
そこから、その中で生きるか、その外側でその自身の行動その物を上手く操るか、
に分かれるのだろうか?
しかしそれは、現実には単なる理想である。
そこで、肉体的には妥協と言う行為ができる。

そう考えればつまり、言葉に自分が近づけば近づく程、自然と溶け合う=空気のようになる=肉体的死に近くなる、
と言う事なのだろう、と思う。

生きている人間がそれを言うと、必ずそれは嘘臭さを伴う。
大地に生きる者が、それをそのまま正しく語る事は不可能である。
何故なら、その言葉そのものを大地に接着し権威付けようとした所で、
ゆがみが起きるだけであるし、
肉体を持っている以上、それは語る事が出来るだけである。
だから、過去の人間の言葉はその現実に生きた人間その物をあまり考慮しないで済むので、
より言葉が輝く。肉体に依存すればする程、消えて行く。
当り前だ。肉体は消えていくものだ。
だからその言葉の通りに出来た分だけ、現実において、力になるのだろう。
そこに価値があるのではなく、各々のその時々の肉体が、
それぞれの肉体における意味において価値をつけるだけである。
それは、求愛行動のための、政治を含む。

単純な事と言うのは、余りに単純すぎて誰しも恐れをなしてしまうのだろうと思う。
それは、ナマコを始めて食べる人のような事に近いのだろうと思う。

その味が分かっているとナマコを巡ってあれやこれやと色々な想像をして、
中々食べる事が出来ない様を見て可笑しく感じるが、

全く何も分からない状態だと、あれやこれやとやはり考えてしまうのである。



未詩・独白 例えば言葉は Copyright 汰介 2004-12-29 19:15:40
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