人魚
ホロウ・シカエルボク



 では、ぼくの友人の話をします。名前を仮にNとしておきます。明るい、いいヤツでした。Nの実家は県境の山のすごく奥の方で、高校のときから市内に出てきてひとり暮らしをしていました。生物が好きで、生物部に所属していて、部室でも、六畳一間の自分のアパートでも、珍しい魚やら、カメやら、ハムスターやらの世話をしていました。一日のほとんどを、水槽やゲージの前で過ごしてるみたいなヤツでした。ぼくは生物とかには人並みの興味くらいしかなく、どちらかと言えば面倒くさいとか、死んでしまったら嫌だろうなとか、そんな理由で敬遠してるという感じでした。けれどNとは不思議と気があって、かれがなにかに餌をやったりしている以外の時間には、  よく一緒に遊んだりしていました。Nは動物園の飼育員になりたいとよく言っていました。「部屋の中じゃ飼えないような生き物と毎日一緒に過ごせたらきっと幸せでしかたないよ」という感じで、よくうっとりと話していたものでした。

 高校を卒業して、Nは農業高校で畜産を学びましたが、動物園の飼育員になることは出来ませんでした。動物園の飼育係というのは、あまり空きがあることがない、というふうに話していました。Nは郊外の、大きなペットショップに就職しました。ぼくらはかれの部屋でささやかなお祝いをしました。

「ライオンに餌をやることは出来ないけど、楽しいよ。可愛い先輩もいるしね。おれと同じで、飼育員に憧れてたけどなれなくて、ペットショップに就職したんだ。なんか他人みたいな気がしなくてね…。」

そう話すNはいつもより少し浮かれているみたいに見えました。高校を二年でやめて仕事をコロコロ変えていたぼくは、なんだかかれが少し違う世界の住人に見えた気がして、そう…なんだか複雑な気分で酒を飲んでいたことを覚えています。

それから数ヶ月ほど経ったある日のことです。Nがぼくに自分の部屋に来い、と電話をかけてきました。相変わらずぶらぶらしていたぼくは、原チャリに乗ってすぐにかれの部屋を訪ねました。かれには日中部屋に鍵をかける習慣がなかったので、いつものように何も考えずドアを開けて部屋に入ると、小柄な女性と目が合いました。「えっ?」と思って思わず部屋を見回したけれど、確かにNの部屋です。ポカンとしていると、部屋の奥からNが出てきました。「この前話した仕事場の先輩。」それからNと女性―仮にYさんとしておきます―はお互いに少し照れくさそうな表情になりました。2人は交際することになった、というわけです。その日はそのまま三人で飲みながら話しました。ふたりの間にある空気は、付き合ってまだ間もないということが信じられないくらい馴染んだものでした。なるほどなぁ、と思いながらぼくはのんびりかれらの話を聞いていました。

Nはぼくと遊んでいた時間をYさんとの時間にあてるようになり、ぼくはぼくで、さすがに少し仕事をしなければいけない状況になってきたので、渋々近所の喫茶店で働き始めました。そのころはまだバブルは崩壊していなくて、平日でもクタクタになるほどのお客さんをさばかなければなりませんでした。時折、三人で遊ばないかと誘われることもありましたが、とにかく休みが少ないことと疲れていることで断っていました…そんな風にして半年が過ぎた頃でした、仕事の昼休み、公園でひと息ついていると、Nの姿を見つけました。ぼくは声をかけて近寄りました。

Nはなんだかひどく疲れているようで、具合でも悪いのか、と尋ねましたが、口を開かずに首を横に振るだけでした。Yさんとなにかあったのかな、と思いましたが、それは聞かない方がいいような気がして、今度時間をつくるから話でもしよう、と約束するに留めました。仕事に戻らなければならない時間が近づいていたので、じゃあ、またゆっくり、と言って別れようとした時、Nが、ぼそっとこんなことを言いました。

「人魚と暮らしてるんだ。」

人魚?とぼくは聞き返しましたが、Nはただうっすらとやつれた顔に笑みを浮かべているだけでした。詳しく聞きたいところでしたが、もう行かなきゃ、と行ってそこを離れました。仕事に戻ってから、もう少し聞いてみればよかった、と後悔しました。でもNのことです、そんなあだ名のある、珍しい魚でも手に入れたのかな―と、そんな風に納得しようとしましたが、あの時のNの、なにかぼんやりとした表情が妙に気になり、二週間後に一日だけ取れた休みの日に、朝一で彼を訪ねることに決めました。

 その日は真夏にしては少しおだやかな、よく晴れたいい天気でした。ぼくは目が覚めるとすぐに顔を洗い、服を着替えてNのアパートに向かいました。階段を上り、何も考えずいつものようにドアを開けて、ひどい臭気に喉を掴まれ、咽こみました。ぼくの仕事は飲食業なので、その臭いには覚えがありました。鼠が、罠にかかって死んだまましばらく気付かれなかったときの臭いです。ぼくは部屋の奥に目をやりました。首に縄をかけたNが、窓のあたりでぶらさがっていました。目や、首のあたりで、なにか小さな生き物がたくさん蠢いているように見えました。ぼくは階段を転がりおちて、一階の端の部屋に住む大家のドアをノックしました。事情を話し、警察に連絡をしてもらい、警官の質問に答えました。そして日が暮れるころ解放されて、そのあとはどうしていたのか…家に帰らずに、あちこちを彷徨っていたような気がします。Nが、自分の命と一緒に、ぼくの何%かを引っこ抜いて行ったみたいな、そんな感じが長く、長く続いていました。

 本来ならば、もう少し早く、Nは発見されていていいはずでした。だけど、里帰りや、旅行などで、Nが首を吊った日を中心とした数日間、アパートにはほとんどだれも居ないという状態が運悪く続いていたのです。もう少し早く、かれを訪ねることは出来なかったのか?ぼくはそんな風に考えました。仕事の帰りなんかに、ほんの少しでいいから、かれの部屋を訪ねることは出来なかったのか…しかしそんなことを考えたところで、Nが帰ってくるわけではないのです。何度も夢を見ました。窓のところでぶらりと垂れ下がったNの夢を。その目をが開いて、ぼくをじっと眺めている、そんな夢を。

 何週間かのち、ふたたびNの部屋を訪ねました。年老いたNの母親に頼まれて、かれの遺物を整理しに行ったのです。ひどく暑い、やはりよく晴れた日でした。部屋の中では、主を失くした小動物や魚たちが、餌を食べることが出来ずに何匹も息絶えていました。ぼくの仕事はまず、かれらの死骸を始末するところから始まりました。ゲージと水槽をいくつかからにしたところで、ひとつだけ、まだ中でなにかが動いている水槽があることに気がつきました。それはぼくが見たことがないもので、比較的新しく飼われ始めたもののようでした。半透明で、身体が長く、スカーフのように水の中を揺らいでいました。こういう魚がこんな小さな水槽で生きていけるのだろうか?ポンプと、ぼくにはよく判らないいくつかの装置が付いていました。餌のこともよく判りませんでした。もしかしたら、水草などを食べて生き延びていたのかもしれません。そいつのことは後に回すことにして、Nが生物以外に残した僅かな私物を、用意してきたダンボールに詰め込みました。Nのことはなるべく考えないように努めました。窓の下の染みも、なるべく見ないようにしました。午後遅く、ほとんどの片付けは終わりました。ぼくはひと休みをして、水槽の中でまだ生きている不思議な魚を眺めました。まだ生きているのなら、どこかのペットショップに連絡して、引き取ってもらった方がいいだろうか?それともここで、処分して捨ててしまおうか?ぼくにとってはどちらでもいいことでした。だから、どちらにも決めがたく、ぼんやりと水槽を眺めていました、その時でした。

 西側の窓から強い太陽の光が差し込み、その水槽を照らしだしました。魚の身体がよりいっそう白く透き通り、水の色が明るくなった時、水槽の向うに何かがあることに気がつきました。フォトフレームにおさめられた誰かの写真…Yさんの写真でした。まるで、もう見たくないからそこに隠した、という感じで、笑顔のYさんの写真が横になって置かれていました。なにがあったんだろう、ぼくは、そう考えずにはいられませんでした、その時…

 光を嫌がったのか、半透明の魚が水槽の底を這うように泳ぎ、Yさんの写真の前を横切る形になりました。ほんの一瞬のことでしたが、それは確かに、本当の人魚のように見えたのです…。


                 了


散文(批評随筆小説等) 人魚 Copyright ホロウ・シカエルボク 2013-05-13 00:28:09
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