ウィリアム・ゴールディングの『蝿の王』
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 『蝿の王』。『十五少年漂流記』との比較されることがあると聞き、どのようなものか気になって読んだ覚えがある。今から十年も前になるだろうか。おぼろげな記憶を頼りにざっくばらんに概要を述べれば、漂流した少年たちが無人島で争いあうようになりながら、最後には救助されるものだ。物語の展開自体は、今となっては珍しくない。
 しかし、いまだに忘れえない。あの最後の台詞が忘れられないのだ。「きみたちも英国人なら紳士的に振舞うべきでなかったのかね」と、軍艦から降りてきた英国軍人が、少年たちを叱咤するのである。
 紳士的に? 殺し合いをしているのは、戦争をしているのは、むしろ大人の英国人であるのに?
少年たちは見事に模倣しただけなのだ、「紳士的」な英国人を! 大人は疑っていない、戦争が野蛮だとは思っていないのである。植民地戦争には大義名分がある。報復には意義がある。正義は我らにあり、討つべきは蛮族である。
 豚の頭は主人公に忠告する。なぜ豚の頭なのか? 蝿の王が、豚の頭なのか? しかし、それは答えを必要としない。悪は偏在する、と。きみ達は珍しくない。殺し合いをするのは悪いことじゃない。常なのだ。悪いことだとしても、戦争状態は常態なのだ。豚の頭は肯定する。
 きみが少年であったなら、歓迎しよう。ようこそ! 世界は死で満ちている。しかして希望せよ。君が望めば回避はできる。逃げ続けることだ。世に仕掛けられた罠は甘言に潜む。この言葉すら疑え。しかして希望せよ。信頼に足る大人はいる。たった数パーセントに満たないかもしれないが。それを見出す目を肥やすべく、勉強するのが、きみの人生である。


散文(批評随筆小説等) ウィリアム・ゴールディングの『蝿の王』 Copyright pur/cran 2013-05-09 16:38:01
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