風俗考 青春の部
salco
流行はぐるりと巡って、パンツはストレートからスキニー最盛だ。ウレタン樹脂の穿き心地を男性も楽しめるところが前回と違う。
にもかかわらず高校生の男の子達は、相変わらずブカブカのをずり下げて穿いている。校外でウエストをたくし上げる女子のスカー
トと共に、制服には不可欠のラインとしてすっかり定着したようだ。その昔、「ツッパる」という自己表現様式の一翼を担っていた、
バルキーなボンタンとは普及度が違う。うらなりデブや生徒会風以外は皆そうだから、普通にかっこいいと認識されるのだろう。
ルーズソックスやギャル語と違って流行の息が長いのは、男子の固執性ゆえかも知れない。母ちゃんの過保護記憶を長じてはグラビ
アアイドルの巨乳に投影するように、だから女の移り気をわざわざ尻軽なんぞと呼ぶ。てめーのちんこはハウスダストより浮薄なくせ
に。
ヒップホップが登場してからもう何十年になる?
被差別も迫害も抑圧も知らぬ民族がヒップホップで、一体何について韻を踏むのだ?
という疑問以前に、着眼点をファッションに置いた場合、あれは腰高な黒人や白人が着ると迫力が出るもので、体幹の扁平な短足人
種がやると大人の服着せられたコドモのようで、どうも貧相さばかりが強調されるのだが、もしかしたらアフリカ系アメリカ人が始め
たこの反社会性モラトリアム・カジュアルは、脱大人社会の表明であると同時に、長過ぎる脚、むっちり出過ぎた尻を隠す脱スタイリ
ッシュであったのかも知れない。という推察を導き出すことができる。
だから極北の体格をした極東モンゴロイドには適さないのであり、表現の意味合いも自ずと変わってしまうわけだ。よって日本の場
合、このストリート系ファッションの要点は、ルーズなラインではなく、うんこ座りやダンスに最適な機能性にあるのでもない。
眼目は「半ケツ」である。そこがボンタンやトライチと違う新機軸なのだ。
では何故、半ケツなのか。ケツの上半分が意味するものは何なのか。
男の臀部がセクシーかどうかは、女のと違い一般論では語れない。
見る人によって受け取り方が違って来るし、そもそも視点が含む性差が大きい。
女のそれが、異性愛者にとっては内部にしまわれた容器の暗喩であると共に、優れた形象は同性にとってさえ羨望の対象となり得る
美を有するのと違い、かほどに男のケツはツラ同様、不特定多数にとってはどってことない媒体ではある。
具体的には形が角い、肌理が粗い、下辺に剛毛有り、とは言え生白いのもキモい、など色々あるだろうが、要は、女の性は不特定多
数を渉猟しない。自分にとって無意味な存在のボディーパーツには価値を置かない。全く着目しないのである。
又、性交渉の局面に限っても、おおよそのヘテロは相手の肛門に指を入れる嗜好性なんぞ持たないので、男の尻には用が無い。便器
を手洗いに用いる者が少ないように、大便を出す穴は一応汚いと定義する者は多い。事実そこが大腸菌の巣窟であれば、少なくとも清
浄とは言い難いのだ。アナルセックスにトライするのは結構だが、アヌスとヴァギナを同一視してはいけない。アナルの後は必ずペニ
スをよく洗浄するか、少なくともコンドームに入れてね。
それにしても何故、歩行運動しているのに臀部の半ばで止まっているのかが不思議である。
骨盤が狭いのに加え、プリケツ人種と違ってケツ盛りの斜度も緩いのに、ベルトだけで固定しきれるのか?
男性一般がこよなく愛するアンチ万有引力の悪あがきは、女性がワイヤーとウレタンパッドで胸部を盛り立てるのとはちょいと意味
合が異なる。オバハンがワイヤーとクロス使い2層メッシュで無駄な抵抗を試みるのとも無論違う。
また昨今は様々な要因による精子数の減少が叫ばれてはいるものの、冷却効果の促進や、圧迫からの解放を目指す為にここまでずり
下げる必要性はないから、政治的表面積拡張運動、いわゆる「シワニズム」「ザーメンズリヴ」の一環ではないと言える。
短い上にも脚を短く見せるこのエゴサントなマゾヒズムは、やはり粉飾ではなく隠蔽を目的としており、隠蔽すべき箇所は一つしか
ない。とすれば、やはりこれは器質的・機能的男性としての自信喪失を表わすのであろう。
XX遺伝子と女性ホルモンにより器質的美点を外観に彫塑され、内蔵する機能性は(しばしば性交時にさえ)忖度されない女達のこ
れ見よがしとは全く対照的に、こうして早くもおのれを恥じて歩くわけだ。
男には、露出願望と対を成す羞恥が一点に集中しており、昂揚と委縮の間隙を、しかも口笛を吹きつつ、前方から投げかけられるメ
ンチ切りを避けて歩かねば因縁をつけられボコられる恐れがある。カツアゲ程度で済めば良いが、入院費で済まぬ場合もあるほどだ。
つまり半ケツ自体は主眼ではなく、ずり下げによる結果、副次的効果に過ぎなかったのである。
では何故、ずり落ちそうでずり落ちないおケツのピークを以て着用のアウトラインとするのか。
理由は勿論「かっけー」からなのだろうが、前提として言えるのはまず、少なくとも脱げるのを食い止めるのに片手を取られる非合
理を考えていない。即ちこいつらは、喧嘩を想定内に置いて歩いてはいない男子である、と言うことができる。同様に、何らかの状況
下でのズラかりを予定する必要もない連中なのだ、とも言えるのである。
示威で実戦を惹起に躍起なオラオラ系は、アホっぽくてもウエストラインは腰骨である。もっとアホを地で行くヤンキーも、不測の
事態に備えてベルトの穴は境界内に設定している。
すると半ケツ連中というのは、傍らをモソモソ歩く中年サラリーマンに等しい乳牛的心理状態に在り、警官にもヤクザにもジャニー
ズファンにも相手ディフェンダーにも追われぬ生活の中で、この線上にこそひそやかなスリルを求めているのだ。という考察が演繹的
に残るのである。
ずり落ちそうだけれどもずり落ちはしない…………。ちっちぇー!