方言について
小川 葉



都会で暮らしていた時、紹介されたある人が、秋田出身者と聞いて、喜び勇み、その人に秋田訛って話しかけてみたものの、ショウジュンゴで返された時、やだあたしひとりで秋田訛ってばかみたい、ということが、いくつかあったものである。
私はたいへん悲しくなって「裏切り者」という、情念さえ抱き、ひとり取り残され、そう思っていたものである。
ところが今では、故郷の県南農村地区の小学生でさえ、今やショウジュンゴで話すのだと聞く。
方言とはいったい、なんだったのだろうか。
私もまた、仙台という都会で二十年間を過ごしながら、仙台訛りという方言を会得しつつも、仙台は都会なのだから、そこで都会的なショウジュンゴというコミュニケーションツールを、二十年という時を経て、やっと体得したものである。
無論、仙台生まれの、うちの子供なんかも、生まれた時からショウジュンゴで育ち(奥さんが元来ショウジュンゴの人だった)、しかし今、時折、秋田の街で、人々の秋田弁を聞くと、あれはおばあちゃんの言葉だと言う。
暮らしのツールとしての方言が、今や俯瞰から観察される言語になりつつあるのだ。
道具としての言葉。それにはよくも悪くも、曖昧さやニュアンスが含まれ、その感覚がわかるからこそ、この土地の人間なのであると認められたものだった。
しかしその土地土地にかつてあった、独特のニュアンスや感覚意識の衰退が、日本じゅう、どの街も同じような景色になってしまった、原因とは言えないか。
方言は、大切である。
どれだけ地域社会を近代化させ、効率化させたとしても、そこで暮らしているのは人間だからなのである。
逆にいえば、はじめに地域があり、人間は、そこで生活させてもらっているのである。
私は子供に、方言を伝えなければならない危惧を感じた。
さもなければ、やがて子供たちは、地域の感覚、ニュアンスを疎外した、効率ばかりを優先する、おかしな大人になってしまうかもしれない。
なぜなら、そうしてこの国を画一化させてきた、さみしさ、失敗を、現代の大人である私たちが、誰よりも痛感しているはずだからである。



散文(批評随筆小説等) 方言について Copyright 小川 葉 2012-12-24 00:30:40
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